第13話 七海編「言葉が届く、そのたびに」


「俺もたまに、あの席のこと、思い出すよ」


その一文を読んだとき、七海は、

誰にも見られないようにスマホを伏せて、

少しだけ胸の前で手を重ねた。


(……覚えててくれたんだ)


ただの場所。ただの偶然。

だけど、二人にとっては、境界がゆるんだ“始まりの場所”だった。


最近、少しずつ変わってきた。

それは彼からの言葉でも、行動でもない。

もっと、目に見えない部分――空気の色のようなもの。


たとえば、会議で視線がふと重なる時間が長くなったこと。

たとえば、資料を差し出すとき、指先が触れそうになるのに、彼がもう離さないこと。

たとえば、LINEのやりとりの「。」が、「。」じゃない意味を持ち始めたこと。


言葉はいつも節度のある“上司”の顔をして届く。

けれど、その奥に隠れている“体温”を、

七海は確かに、受け取ってしまっていた。


(このまま……もう少し、近づいてしまっていいのかな)


そんな風に考える自分を、何度もたしなめてきた。


でも、彼と交わす何気ないメッセージのあと、

気づけば小さく笑っている自分がいて、

眠る前、スマホの通知を無意識に確認している夜が続いていた。


それを“恋”だと呼んでしまえば、きっと何かが壊れてしまう。

けれど、それでもいいと思えてしまうほど、

彼から届く言葉のひとつひとつが、今の七海にとっては、

静かで、あたたかくて、深く染み入る“贈り物”だった。


“好き”だとは、まだ言えない。

だけど――“この関係が続いてほしい”とは、願ってしまっている。


それが、いけないことなのか。

それとも、自然なことなのか。


答えは出ないまま、七海は静かに画面を開き、

打ちかけた返信をまた消しては書き直し、

最後に、ほんの短い一言を添えた。


「また、行けたらいいですね。あの席に。」


画面に送信済みの文字が浮かぶ。

その小さな吹き出しが、七海の胸にぽつんと灯る光のように見えた。


誰にも知られなくていい。

でも、この時間が確かにあったことだけは、

そっと心にしまっておきたかった。

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