第7話 (続き) 「それぞれの帰り道」


「……じゃあ、そろそろ行きましょうか」

七海がそう言って、テーブルの上に財布を出しかけたのを、及川が制した。


「いや、今日は俺が払う。言っただろ、“ごちそうする”って」


「……ありがとうございます」

素直に笑って、軽く頭を下げる七海。照明の灯りが髪にやわらかく差していた。


店を出ると、夜風は少し涼しく、空気には初夏の気配が混じっていた。


二人並んで歩く帰り道。

繁華街の明かりが徐々に遠ざかり、駅前の静かな通りに差しかかる。

いつもの会話。けれど、少しだけ言葉が少なくなっていた。


「今日は、本当にありがとうございました」

改札の手前で、七海が立ち止まる。


「なんか、もっと話していたかった気もしますけど……でも、こういうちょうどよさもいいですね」


名残惜しそうに、でもどこか大人らしい抑えたトーンで。

彼女は小さく笑った。


「……また、機会作ってもらえたら、うれしいです」


“機会があれば”ではなく、“作ってほしい”。

その選び方に、彼女の本心がにじんでいた。


「……ああ、また行こう。ありがとう、七海さん」


駅の改札で別れたあと、及川はしばらくその場を離れず、スマホも見ずに立ち尽くした。


気を抜けば、彼女の笑顔と声が、胸のどこかを温かく満たしてくる。

それは、決して恋とは言い切れない。だが、確実に“何か”が芽吹いていた。


家に着いたのは、22時すぎ。

玄関の灯りはついていて、リビングからTVの音が漏れていた。


ドアを開けると、ソファには妻がうたた寝していた。

膝にはバスタオル。テーブルには使いかけの薬と、飲みかけのミネラルウォーター。


その横には、娘が描いた“似顔絵”。

無邪気に笑う“パパ”の顔と、「だいすき」の文字。

思わず、ため息が喉の奥でつまる。


静かにバスタオルをかけ直し、リビングの明かりを少しだけ落とす。


部屋は暖かい。けれど、なぜか“自分の居場所”だけが少し温度が違うように感じた。

今日の会話、七海の笑顔。

それらが、ここではまるで“存在しなかった”ことのように静かに消えていく。


歯を磨きながら、鏡に映った自分と目が合う。

「何をやってるんだ、俺は」

誰に聞かせるでもなく、心の中でそう呟いた。


けれど、胸の奥でまだ、七海の声が響いていた。


「……また、機会作ってもらえたら、うれしいです」




洗面所の明かりを落とし、寝室へ戻ろうとしたその時、スマホが小さく震えた。

メッセージ通知。画面に浮かんだのは「新倉七海」の名前。


アイコンには、少しピントの甘い写真。

木漏れ日の中、白いシャツにすっぴんに近い笑顔。

いつも会社で見る、きちんと整った“職場の彼女”とはまるで違う。

どこか素朴で、飾らない人間味が滲んでいた。


メッセージは短かった。


今日はありがとうございました。

すごく楽しかったです。また、お仕事でも力になれたらうれしいです。


丁寧だけど、どこかやさしい余白があった。

まるで、“また会いたい”という本心を、言葉に出さずに残したような。


及川はしばらく画面を見つめたまま、返信ボタンに触れず、スマホを伏せた。


(……このまま、寝た方がいい)


そう思いながらも、心のどこかで、あのアイコンがもう一度光るのを待っている自分に気づいた。


布団の中。

隣で眠る妻の呼吸が、規則正しく静かに続いている。


目を閉じても、七海の声だけが、鮮明に耳の奥で響き続けていた。




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