五色のカード

型津武利(かたつむり)

1話  《生きたがりと黒い鍵》

──昼まで寝て日が昇る前くらいに寝る。



 運動不足になるぞと親に言われたものの、みっともない姿でランニングするときっと同級生に笑われるんだろうなと未だに室内で筋トレするくらいしかできていない。


 自分の部屋でゲームと筋トレとネッ友と話すだけで、あの時こうしておけばよかったなという後悔ばかりが募る。


 常に抱えているものを見えなくするように日々を過ごしていると、メッセージアプリの通知が目に入った。内容はこれからの高校受験の話だ。クラスで使っているグループチャットの既読を付けるだけ付けて閉じ、布団に寝転がった。嫌なものが目に入ったからか、肺の奥から全ての酸素が無くなるような重い溜息が出てしまう。


「やめてくれよ、まだ半年くらいあるだろ…」


 画面を暗くしたというのに、つい癖でまたスマートフォンを手に取ってしまった。画面に映る通知を見て先程の事を思い出した瞬間、それを抑え込みたい衝動で頭を抱える。壁に頭を打ち付けようとするが、過去にそれで親に怒られたことがある。寸の所で止まったのはいいものの、沸騰しているような衝動はまだ止まらない。今度は机の上にある円柱型の小物入れからカッターナイフを取り出して左腕に突き立てる・・・が、刺す度胸も無ければ皮膚を切る気は毛頭ない。


「うぅ……俺は何をしてるんだ、本当に…」


 数秒間経つと怒りが静まるという話を聞いたことがあるが、今回の衝動もすぐに落ち着いて正気に戻ってしまった。というかそもそも刃を出していなかった。その時点で正気ではあったのかも知れない。もう面倒だ、と一言漏らしてまた布団に寝転がる。手に持ったままのカッターナイフを戻すのも面倒なので、そのまま右ポケットにしまうことにした。


「あ、トイレ行こ」


 思い出すように起き上がってトイレがある一階へと向かおうとする。行く度に親と顔を合わせないといけないのが少し苦痛だが、こればかりは仕方がない。当の本人達との仲は全く悪くないとは思っているが、ここまで何も言われないと逆に重荷を背負わされている気がする。悪い事を思い出さない内に用を済ませて何かしなければ──とようやく部屋から出たが、階段の一番下の段に何か白いものが落ちていた。


「なんであんなとこに紙?踏んで滑ったら危ないだろ…」


 踏んでは良くないものかと立ち止まったが、ただの紙なら問題はないか、とそのまま一段下りようとした時だ。浮遊感のような、心臓が一拍だけ止まったかのような感覚を一瞬感じて、目線だけが下に向かう。


──しまった、踏み外した!


 そう言う間もなく身体は前へ倒れ、手すりを掴もうと伸ばした左手はその伸ばす動作のせいで重心がずれ、倒れる速度を加速させる手助けとなってしまう。どこを守るべきかと考えると同時、目の前の世界が遠い彼方へ行ってしまうような感覚を覚えた。前へ倒れていたと思っていたのに、変な動作をしたせいで後ろ向きになるように回転していたのだ。


 一つ鈍い音が発せられたかと思えば、ずる、と引きずられるかのように再び転げ落ちる。


 目は開いているのに、何も聞こえない。息ができない。視界の端には白いものがあった。しかし、それは少しずつ染まってきているのがわかる。身体どころか、指一本すら動かせない。せめてこの紙が何だったのかを確かめてから命を潰したかった。


(ああ、死にたがってたから罰が当たったんだな…)


 視界に映る白だったものが赤に染まり切る前に世界に置いて行かれるかのように景色が遠く、そして全てが白く変わっていく。苦しい感覚が少しずつ心地いいものになって初めて、自分はもうどうしようもない状態になっている事を悟った。もう足搔くのは良くない、その心とは反対に目から涙が溢れて止まらない。




 せめて、来世は自分の求めていた世界で生きたいと願った。




*****




「死にたくない!──え?」


 目が覚めると、心地いい風が仰向けになっていた自分を撫でた。天国にしてはあまりにも生々しい植物の感触が手を伝わる。上半身だけ起こして周囲を見渡すと、近くに街らしきものがひとつあるだけで、お世辞にも綺麗とは言えない舗装された大通りからは、馬が布を被せた何か大きなものを引っ張って街の中へ入ろうとしていた。いや、他のをよく見てみれば中に人が居る。あれは所謂馬車というものなのだろう。


「馬車…?初めて見た、なんだここ」


 ゲームの中でしか見られない光景──3DCGや粗悪なアセットモデルなどではない。まるでファンタジーをそっくりそのままリアルに移し替えたかのような、あまりにも信じられない状況にじわりと汗が噴き出る。何度目を擦っても景色は変わる筈もなく、きっとこれは夢なのだろうと頬を思いっきり抓るがすごく痛い。


「ゆ、夢じゃない!あれ、あの馬車ずっと止まってるな?」


 先程見ていた馬車の群れは街に入る手前で止まっている。兵士のような格好をした人が何故か馬車を止めているらしいが、何が原因でこうなっているのかは近づかないと分からない。わざわざ首を突っ込むのはどうかと思ったものの、知らない所でまずやるべき事と言えば知らない人に話しかけまくる事だ。一体ここは何処なのか聞きに行くという体で野次馬をしに行くとしよう。


 階段から転げ落ちたのが嘘かのように、何事もなく立ち上がる事ができた。しかし一歩踏み出すとじゃり、と音がする。というか、足の裏が地味に痛い。下を向いて見ると、靴下を履いているだけで靴が無かった。目の前の街でどうにか靴を調達できれば良い話なのだが、まずは入れるかどうかすらわからない。


 歩いて十分もかからない程。近づいてようやくわかった事と言えば、こんな時に限ってある種の検問が張られていることだ。大通りは馬車専用の通路になっていて、何人もの兵士たちが一人一台ずつ馬車の貨物を点検している。馬車で来ていない人達は大通りから逸れた別の道から入る事になっているようだ。


「そこの少年、見た事が無い服装だな。この紙に名前と年齢、どこから来たのか、何の目的でこの街に来たのか、いつ頃出ていく予定かを書いて並んでくれ。」


 紙と一緒に羽根ペンを渡され、兵士が指を指した方向に向かって歩く。自分の他に五人程並んでいるようで、自分の番が来る前にこの紙に情報を書いておこうとペンを紙に付けた。


 ふと思う。この紙に書かれている文字、平然と"漢字"と"ひらがな"があるではないか。普通こういったファンタジー世界は筆記体で英語が書かれていて、それを書くための羽根ペンが渡されるのはわかる。しかし羽根ペンで日本語を書くのは非常に難しい。というか、羽根ペンで文字を書く事すらしたことが無い。ただでさえ汚い字が更に汚くなったものの、とりあえず書き記す事ができた。


名前・大沢未来おおざわみらい


年齢・十四歳


どこから来たのか・日本


この街に来た理由・たまたま立ち寄った


出発予定・何日滞在するか考えていない


…これで良し。


 行った事も無いテーマパークの待ち列に並んでいるような気分になりながら自分の番を待った。足の裏の痛さも地面が草ばかりだからか、思ったよりは痛くない。靴下に植物の汁が付くのが少々癪に障るが、もう少しの辛抱だと自分に言い聞かせて耐え忍んだ。前に並んでいる人達は一言二言程話をしただけで簡単に通れたらしい。そしてやっと自分の番だ!気怠げな男性の顔が見える。個人情報(と言えるほど詳しくは書いていない)を書いた紙を渡した後、少し表情が曇ったのを感じた。


「君、子供か?親に追い出されたのだろうな、靴も無いとは。しかし見た事が無い服装…すまないが怪しい者は身体検査することになっている。腕を横に広げてくれ。」


「ああ、全然大丈夫で…あっ」


 両腕を横に広げたタイミングで思い出した。右のポケットにはカッターナイフが入ったままになっている気がする。この世界は銃刀法違反とかそういう法律があるのかすら知らないし、この検問が何を調べているのかも分からない。武器だと思わしきものが所持品から出てくればアウトだとしたら、追い返されてしまう…しかも靴が無い状況で、歩くのもまともにできない状態でだ。この気怠げな男性が雑にチェックする事を願うが───。


「ん?これは何だい?傾けると輝き方が変わるみたいだが。」


 意外にも、男性が未來の右ポケットから取り出したのは一枚の黒いカードのようなものだった。もちろん自分が拾った覚えは無い。大きさは一般的なトランプのカードと同じくらいで、ホログラム加工が施されているのか、角度を変えると光り方が変わって見えた。この場を黙ってやり過ごそうかと思ったが、適当に嘘をついて切り抜けるしかないようだ。


「ええと、そのカードは道で拾って…価値があるものかと思って、この街に鑑定しに来たんです」


 気怠げな男性はそれを聞いてカードの両面を確認した後、未來の右手にカードを握らせた。


「なるほどねぇ。そんなに大事なものならこんな取りやすい所に入れるなんてとんでもない、スリに遭うからね。…それはそれで、これは一体なんだい?」


 いつの間にかカッターナイフが取られており、気怠げな男性の手に握られている。まだカッターナイフから刃は出ていないが、スライダーを少しでもずらされると刃物だとバレてしまう。確実に今、自分は焦っている。汗が噴き出すどころか、身体が震えてきたような気もする。さっきまで前に並んでいた人達は簡単に通れていたのに、この仕打ちはあんまりではないか?そう叫びたい気持ちを抑え、思いついた嘘を吐く。


「そ、それは俺の家に代々受け継がれる儀式の道具で…儀式の修行を脱走してきたから、俺は今靴すら履けてないんだ!この奇妙な服も変装のために格安で商人から買ったからな!」


 沈黙が続く。今もカッターナイフを不思議そうに見ている男性は、どう握るものか聞かずともスライダーに親指を当ててみせた。えっ、と驚いたような、怯えて出たような声が自分の口から漏れる。その反応を見て確信したのか、今度は右手でスライダーを摘んで一気に刃を押し出した。


「ま、待って…!」


 カチカチカチ、と全ての刃が露出する。男性は刃の先を自身の篭手に持って行ったかと思えば、金属の表面を薄く掠め取った。一見何もしていないように見えるが、太陽の光が反射する事によって一筋の傷が露わになる。


「ほうほう、刃を仕舞う事で安全に携行できる訳だ。殺傷能力はナイフに劣るとしても…暗殺には使えるな?」


 迷子を見る目から打って変わり、目が血走っているような、殺気のようなものが周囲を満たしている。怒られているなどという状況ではない。


 弁解する前に男性は未來の左腕を掴み、どこかへ連れて行こうとする。


「小僧!さてはあのカード使いの仲間だな!子供だからといって優しい扱いはせんぞ!牢屋にぶち込んで餓死させてやる!」


「ま、待ってくれ!本当に俺は怪しい奴じゃない!靴も買えない哀れな子供だよ!カードもそのカッターもあげるから離して!」


 掴まれた腕を動かして抵抗しようとするが、兵士として訓練を受けているであろう筋力に敵う筈がない。哀れな子供ムーブをかました所で、ただ自分が虚しくなるだけだ。中学生にもなって泣き落としなんて恥ずべき行為だろう。


 そもそも、知らない人に接触するだけなら馬車に乗っている人に話しかけるだけで済んだのだ。全ての行動が裏目に出てしまっている。何かの間違いで生き返ったというのに、このままでは無駄死に一直線ではないか。ああ、逃げたい、死にたくない!


──何も言わずにこの手を離してくれよ!





 そう、願った時だった。





 右手から闇のような──黒色の光が発せられる。


「なっ、何をしている貴様!!」


 男性は焦って未來の右腕を掴んで上げさせようとするが、それよりも先に未來は手に持っていたカードを嫌でも視界に入るように見せた。咄嗟に目眩ましに使おうと試みたのだ。まるで意思に応えるかのように、光は更に強くなる。未來自身も直視できない程の光に達した時、掴まれていた左腕がいとも簡単に抜けて、その場で尻餅をついた。目が眩む程度では腕を離さないだろうと思っていたが、その予想が外れてバランスを崩したようだった。尾骶骨を打ったのかすぐに立ち上がることはできず、そのまま後退りする事しかできない。


 しかし、さっきまで未來の腕を掴んでいた筈の男性はその場で俯いて棒立ちしていた。


「…失礼しました。これも返しますんで、そのままお通りください。」


「は…え?なんでそんな急に…」


 何か目が眩んだだけではこうなる筈が無い。普通、もがきながらも捕まえに来るんじゃないのか?そう考えて様子を伺っていると、急に俯いた顔を上げ、とても生気が感じられないような機械的な腕の動きで未來にカッターナイフを投げた。地面に投げられたそれは草を貫通しつつしっかりと刺さる──もう少しズレていたら左手の指が一本吹っ飛んだかも知れない。


「ひっ!?ご、ごめんなさい!」


 カッターナイフを引き抜き、そのまま男性の脇を潜るようにして街へ入る。何度も振り返りながら進むが、男性は追いかけてくる様子もなければ、最初に振り返った時からずっと街の外を眺めていた。



*****



 刃にこびりついた土の水分を拭いながら薄暗い路地を進み、人が多い大通りを目指して歩く。時々靴下の中に入り込む砂利を取り除くために靴下を脱ぎ、指先で摘んで除去しながら進んでいると、数ある路地の中から自分自身と似たような背丈の人影が一人出てきたのが見えた。


「…ゲームとかで見た、貧民ってやつかな?」


 土気色の質が良いとは言えない服装をしているあたり、ファンタジーな世界ではよく見る貧民というものかも知れない。どこから調達してきたのか、大きめの麻袋から四、五足の靴らしき物を出して磨いていた。商売をするなら街の構造にも詳しそうだが、先程の兵士の件で知らない人に話しかける事が怖い。どうしようかと考えながら脇道に逸れようとすると、土気色の服を着た彼がこちらに話しかけてきた。


「あのー!靴、磨く前なら安くしますからー!」


 靴を履いていない人は靴売りにとって鴨同然…なのだろうか?それはそれとして、恐らく同年代くらいなのであろう声の雰囲気に思わず彼の方を向いてしまう。目が合ってしまったので、渋々どんな靴があるか見に行く事にした。彼の近くに行く前に、靴を一足磨き終えたようだ。他にまだ磨けていない四足の靴を並べながら、やや不躾な程に未來の身体をジロジロと見ている。


「あっ…やっぱり靴、履いてなかったんですね!えっと、物々交換でも良いですけど…」


「ああ、お金持ってないからちょうど良かったよ。これ、見たことあるか?」


 そう言って未來はカッターナイフを取り出した。そのまま刃を出したり戻したりを二回繰り返す。


「これをこう持って黒い部分に親指を当てて前にずらせば刃が出てくる。切れ味が落ちたら刃に彫られてる折目に合わせて少しずつ折って…今は替え刃を持ってないけど、短くなったらさっき親指を当ててた黒い部分を刃を出す方向とは逆に抜いて新しいのに変えれる。」


 話しながらも身振り手振りで説明しているだけでは覚えられないような気がするので、彼に渡して同じ動作をやらせてみると──意外とすんなりできていて驚いた。刃を外してから元に戻す動作で思わず軽く拍手してしまった。簡単にできる事に対して大層な反応をしてしまった気がしてかなり恥ずかしくなる。一方、彼は興味深そうにカッターナイフを手に持って細かい部分まで目を凝らして見ており、一つ頷いて未來の目を見ながら上機嫌そうに話しかけた。


「うん、薄い木の板とか、ちょっとした縄なら切れそう!替えの刃は無くても大丈夫ですよ。靴を一足持って行ってください!」


 そう言って、彼は磨く前の四足の靴を手のひらを向けて示した。しかし、靴はどれも高級品そうでとても今の服装に合いそうにない。黄色い十字架のようなシンボルが付いていたり、所々に大なり小なり宝石のような装飾が付いていて磨かなくても高値で売れそうだと感じる。


「…なあ、この靴たちかなり高そうだよな、俺はその…磨いたばかりのそのシンプルなブーツの方が好みというか、な。」


 大分無茶を言っているのは承知で、既に磨いてあるブラウンのブーツを指差す。彼はわかりやすく驚愕しながらも、そのブーツを未來の前に持ってきてくれた。


「ほ、本当にいいんですか?あの靴も、貰った後で宝石だけ外して売れば大金に…」


「いや、大丈夫。わざわざ磨いた後の物を貰おうとしてるし、その靴たちは諦める。」


 そう言ってすぐにブーツを取り、履いて彼に背を向ける。そういえば、名前を聞いていなかった。


「名前、聞いていいか?俺は大沢未來って言うんだ。未來が名な。」


「苗字があるなんて珍しい…あっ、僕はスプって言います。また、どこかで会う事があれば…」


 未來はそのまま振り返ることもなく片手を上げ、ぎこちなく手をひらひらと振った。またな、とだけ言い残し、そのまま別の路地へと入っていく。少し歩いた後、スプが「か、かっこいい…!」なんて言うものだから、動揺が仕草に出て躓いてしまった。うまく踏ん張って倒れるのを防ぎ、必死に平静を装いながらも、ある程度歩いた所でその場にへたり込む。


「ひい、かっこつけるのがこんなに大変なんて…」


 スプが見ていないか後ろを見てみるが、もうそこには居なかった。靴を磨きに行ってしまったのだろうか?見栄を張らずに色々な事を訊けば良かったと後悔するが、スプがこの世界の事について知っている保証は無い。もう一人、できれば博識そうな見た目の人間を見つけたい所だ。


「はぁ…結局、住宅地っぽいとこばっかりじゃないか。日が出てる内はみんな仕事とか学校があるのかな…あっ!?」


 二十メートル程先だろうか、ようやく路地の先に人々の往来が見えた。ここからでは大通りかどうか断定できないものの、独りでいるよりかは全然良い。やった、やっと薄暗い所から出れるぞ、なんて呟きながら立ち上がり、数歩進む──視界の端に、白い細長いものが映った。何だ、と発すると同時にそれは首へと周り、きつく締め付けられる。


「あがっ…!?」


 何かの糸で首を絞められている。少しでも抵抗しようと首を引っ搔いてまで糸を伸ばして気道を潰されないようにもがくが、爪が全く糸に引っ掛からず、空振った爪が首にどんどん傷跡を付けてしまうばかりだ。


 ならせめて首を絞めている本人を叩くしか──突くために肘を構えて思いっきり身体を捻ると、そこにあるのは一本の糸…つまり、振り返って数メートル先に首を絞めてくる奴がいたのだ。身なりを見る限りスプではない。少なくとも身長が自分より高いし、着ている服もボロボロだ。髪も腰まで伸びているし、黄色の髪は何か白いものが数えきれない程付着して汚らわしい。


「残念だったなァ~お前?ミライとか言ってたな、もうあのナイフは持ってねェんだろ?じゃあその珍しい服置いてけよ!」


 その男は大声で未來を脅すと、さらに糸の締め付けを強くして気色の悪い笑みを浮かべた。もがいている様を愉しんで見ているようで嫌だ──そんな事をぼんやりとした意識で考えていると、限界が近づいてくる。その場に獲物が倒れても尚、意識を失うか死ぬまで糸を絞めるのを止めないようだ。


「(ダメだ…俺は結局死ぬってことなのか?…!まだだ、さっきみたいにカードで目を眩ませれば!)」


 未來の首から男の手まで伸びている糸を掴み、右ポケットからカードを取り出す。カードを取り出した事を悟られないよう、左半身を男に向けるように出すと、その行動自体が男の癪に障ったのか表情を歪めた。


「醜い事をすんじゃねェ!毛皮みたいに伸ばしてやらァ!」


 男の手が開いたかと思うと、既に掌の中心から伸びている糸はそのままに、五本の指から糸を出して未來に向かわせた。既に首を絞められている未來に避ける術はない。糸はまるで空中を幾度も反射するように曲がって進み、両手両足、そして胴体を締め上げた。糸によって身体が一メートル程宙に浮く。だが、黒いカードはなんとか手放してはいなかった。


「ん?お前…なんだァそのカードは?」


 未來は必死にカードに願う。先程の兵士に対して発した強烈な光を奴にも喰らわせて、一刻も早く逃げたいと。意識が手放される前にこの糸を解かなければ、本当に死んでしまう。それだけは嫌だ。


 心臓の鼓動だけが脳内で響く──家の階段から落ちる時に感じた、見ている物が遠のく感覚を覚えた時、突然するりと首に巻かれた糸は解かれていく。


「あァ?な、なんだァ!?」


「っ、ごほっ…げほっ、フーッ…ッ!」


 肺に空気が雪崩れ込むのを感じて、必死に呼吸を繰り返した。頭が内側から叩かれているような感覚を覚えつつも、手に持っているカードを横目で見る。そのカードはただの黒いカードではなかった。黒い外枠に、カードの背景は白一色。カードの上部には「K」と書かれており、下部には鍵のシルエットが描かれていた。


「か、カードに鍵の絵が…うっ!?」


 視線を男の方へと向ける前に、上下左右からおびただしい数の糸が数センチ前まで迫ってきていた。目に映るものだけでも、十数どころか百以上は確実に在る。まるで糸の大群が一つの生き物で、白蛇が獲物を喰う瞬間かのようにも思えた。しかし──


「何をしたか知らないがよォ!一本外れたってどうってこと…なにィ!?」


 糸が腕や足に巻きつくにつれて、身体の別の個所に巻き付いていた糸が弾け飛んだ。千切れた糸は白い粒子へと急速に変わり、次第に生成と破壊の均衡が釣り合わなくなる。なし崩し的に未來は地に落とされるが、四つん這いの格好から顔を上げた後、数秒も経たない内に男の手から糸は出なくなっていた。


「な、なんなんだお前はァ!?」


「このカードのおかげか…!」


 この状況で勝手に糸が解かれたり破壊されるのはこのカードが起こした現象だとしか思えない。だが今はこのカードについて考えている時ではない。男が困惑している内に早く逃げなければ。息も整っていない中、カードをポケットに入れ込み、振り返って走り出す。


 しかし、身体は思ったよりも酷いダメージを受けていた。それぞれは一瞬ではあるが数えきれない程強く何度も縛られたのだ、直に糸が当たった皮膚は赤く、加減を知らないまま筋トレした後のような酷い筋肉痛で、思うように動けない。


 糸が解けて着地した時に突いた膝と掌が痛んだ。右の足首を挫いた衝撃から膝をつき、更なる痛みに耐えきれず前へ倒れ込むと、その様子を見た男は平常に…あの気色悪い話し方に戻った。


「はッ!お前、直接殴ってもねェのにこれかよォ、弱いなァ?あと少し走ってけば人の多いとこに出られたのにヨォ~!」


 鼻で笑った男は、未來の背中を片足で踏みつけると、脇腹を何度も蹴り続ける。


「っ、あ゛っ……!い…ぃ、いてぇ、やめろ…!」


「まだ喋れるか、まァ本気で蹴ってねェしな。…背中が汗でべっとりだなァ、汚ェ」


 男は足を退けたかと思うと、地面に何かを擦りつける音がした。今の内に逃げようと考えても、身体が重くてとても立ち上がれたものではない。踏まれて痛んだ背中に触れると──


「これは汗じゃねェ!…なァッ!?」


 男の悲鳴のような大声が聴こえたかと思えば、手から伝わる水分が急激に未來の背中から吹き飛んだような感覚を覚える。一瞬の内に強力な脱水機にでも入れられたかのようだ。何事か、と振り返ろうとする。しかし、顔を上げた時に誰かの足が見えた。黄色い十字架のシンボルが入った黒い靴を履いている。見上げると、水色の長い髪をなびかせている女性が居た。顔はぼんやりとしていて見えないが、青いカードを持っている事はわかる。


「クソォッ!!施設長がなんでこんなとこにいやがるッ!」


 男が吐き捨てた言葉と同時、風を切るような音がいくつか鳴ったかと思えば、男は糸を伸ばして路地の上…恐らく家屋の屋根に逃げて行ったのだろう。未來が仰向けになった頃には足の先程しか視界に映す事は出来なかった。脅威が去った事に対して安心したのか、急激に意識が朦朧とする。これはヤバいな、と思う間もなく、瞼が閉じてしまった。


「キミ、大丈夫!?頑張って、死んじゃダメ!」


 あまりにも焦り過ぎている声が聞こえる。きっとあの男を追い払ってくれた女性の声なのだろう。担がれた感覚の後、その他にも声が聞こえるが、もうはっきりとは聞き取れはしなかった。

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五色のカード 型津武利(かたつむり) @510snail

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