第十四章 残響、あるいは灰色の夜明け
「NORTHLAND」と呼ばれた地下の迷宮が、その心臓である水晶の砕け散る音と共に断末魔の叫びを上げたのは、もうどれほど前のことだったか。狐坂潤の記憶の中で、その瞬間は、閃光と轟音、そして舞い上がる粉塵と、揺のうなじにかかる髪の匂いだけが、やけに生々しい手触りを伴ってこびりついている。
意識を取り戻しかけていた九十九揺を背負い、迫り来る崩落と爆炎の中を、潤はただ無我夢中で駆け抜けた。周防晶の姿は、混乱の最中にどこかへ消えていた。あの怜悧な男のことだ、おそらく自分なりの最適な脱出ルートを見つけ出したのだろうと、潤は妙な確信を持っていた。
地下水路を逆流し、涸れた「龍神の滝」のマンホールから這い出した時、夜空は白み始めていた。アザリア記念公園は、もはや公園としての体を成しておらず、巨大な陥没孔と、そこから立ち上る黒煙が、悪夢の成就を告げていた。潤は、揺を抱えたまま、一度も振り返ることなくその場を走り去った。彼らの背後で、朝日を浴びた都市が、何事もなかったかのように静かに目覚めようとしていた。
***
数ヶ月が過ぎた。
丹羽緋里は、海沿いの小さな町の古びたアパートの一室で、息を潜めるように暮らしていた。「組織」の残党は、今も彼女の行方を追っているという噂だった。あの夜、筧に利用されたと気づいた彼女は、軟禁されていた部屋から命からがら脱出し、偶然手に入れた「NORTHLAND」の施設の構造図の一部を、匿名でいくつかのメディアにリークした。それが、結果的にどれほどの意味を持ったのか、彼女には分からない。ただ、時折、窓の外を飛ぶ海鳥を見ながら、揺の射るような瞳と、潤の間の抜けた笑顔を思い出し、胸の奥が微かに痛むのだった。
月代聖は、偽名でいくつかの海外のニュースサイトに寄稿を続けていた。「NORTHLAND」事件は、公式には「過激派テロリストによる大規模自爆テロ」として幕引きが図られたが、彼女が発信し続ける断片的な情報や、元「組織」内部にいたと思われる匿名の告発者たちのリークは、その公式見解に疑いの目を向ける人々を、僅かながらも確実に増やしていた。だが、その活動は常に危険と隣り合わせであり、彼女自身、いつ「消される」か分からないという恐怖の中で、それでもペンを握り続けていた。「真実は、沈黙の中にはない」――それが、彼女の今の唯一の信条だった。
「NORTHLAND」の跡地は、厳重に封鎖された後、いつの間にか巨大な更地へと姿を変えていた。その場所に、新たな複合商業施設が建設されるという計画が、まことしやかに囁かれている。アザリア神話は、かつての輝きを失い、都市の若者たちの間では、どこか不吉で、触れてはならない都市伝説の一つとして語られるようになった。だが、その物語が完全に忘れ去られることはないだろう。人の記憶とは、そう簡単に上書きできるものではないのだから。
***
狐坂潤は、雪深い北の港町で、漁船の修理工として働いていた。日焼けした顔には、以前のようなお調子者の笑みはなく、寡黙で、どこか影のある男になっていた。あの日、揺を安全な場所――彼がかつて世話になった、今は寂れた診療所の老医師の元――に預けた後、彼は黙って姿を消した。揺とは、それきりだ。時折、凍えるような夜空に浮かぶオリオン座を見上げながら、彼はタバコに火をつけ、短く息を吐く。あの悪夢のような日々は、彼の人生に何を遺したのだろうか。答えは、まだ見つからない。
周防晶の行方は、誰も知らない。ただ、数年に一度、世界のどこかで、既存の科学技術の常識を覆すような論文が、偽名で発表されることがあった。あるいは、国家間の機密情報を狙った大規模なハッキング事件の背後に、彼の影が噂されることもあった。彼が「NORTHLAND」で何を見つけ、何を持ち出したのか。そして、彼が「友人」との約束を果たそうとしているのか、それとも全く別の目的のために動いているのか。それは、誰にも分からなかった。ただ、彼という存在が、この世界の均衡を静かに、しかし確実に揺るがし続けていることだけは、間違いなさそうだった。
九十九揺は、あの老医師の診療所で、長い眠りから覚めた後、しばらくの間、全ての記憶を失ったかのように無気力な日々を過ごしていたという。だが、ある春の日、不意に診療所を抜け出し、そのまま消息を絶った。彼女がどこへ向かったのか、何を目指しているのか、知る者はいない。ただ、時折、都市の雑踏の中で、風のように駆け抜ける黒髪の女を見た、という不確かな目撃情報が、潤の元に風の噂で届くことがあった。彼女の中に響いていた「声」は、もう聞こえないのだろうか。それとも、その「声」は形を変え、彼女を新たな運命へと導いているのだろうか。
夜明けは、時に灰色だ。全てが洗い流され、新たな始まりを告げるような清々しい朝焼けばかりではない。過去の残滓が混じり合い、未来への視界を不明瞭にする、そんな夜明けもある。
「NORTHLAND」の祝祭は終わった。だが、その虚無の中から生まれた小さな亀裂は、確実に世界のどこかに存在し続けている。それは、癒えることのない傷跡か、あるいは、硬い土を割って芽吹く、名もなき草花の最初の兆しか。
星々は、今夜も変わらず空に在る。その冷たく、そしてどこまでも深い輝きは、答えではなく、ただ静かな問いを投げかけ続けているようだった。
残響は、まだ止まない。
(了)
NORTHLAND:虚構神域 kareakarie @kareakarie
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