第十二章 禁断の果実の味、あるいは回帰する螺旋

「NORTHLAND」の深部は、人間の倫理観が溶解し、歪んだ探究心だけが支配する異形の実験場だった。九十九揺、狐坂潤、周防晶の三人が足を踏み入れたのは、遺伝子操作によって禍々しいまでに巨大化した植物が、青白い照明の中で不気味な影を落とす温室のような区画だった。空気中には、甘ったるい花粉と、微かな腐臭が混じり合った異様な匂いが漂っている。

「……なんだ、こりゃあ……。植物園にしちゃあ、ちいとばかしグロテスクすぎやしねえか」

潤は、自分の背丈ほどもある奇妙なキノコを気味悪そうに蹴飛ばしながら呟いた。

揺は、周囲の異様な光景には目もくれず、まるで何かに導かれるように、温室のさらに奥へと進んでいく。彼女の耳には、あの幻聴が、先ほどよりも強く、そして甘美に響いていた。

(もうすぐよ……あなたの苦しみは、全てここで終わる……)


やがて三人は、この温室の中央に位置する、ガラス張りの研究室のような場所にたどり着いた。室内には、夥しい数のモニターと、複雑な配線が絡み合った実験装置が並び、その一つには、人間の脳の断面図のようなものが映し出されている。そして、壁一面には、びっしりと研究記録らしきものがファイリングされていた。

晶が、吸い寄せられるようにそのファイルの一つを手に取り、目を通し始めた。その表情が、みるみるうちに険しくなっていく。

「……これは……『預言者アザリア』の神託を、神経科学的に解析し、人為的に再現しようとした記録……? しかも、その過程で、人間の集合的無意識に直接アクセスし、特定の情報を刷り込むことで、社会全体の精神構造を再構築する……『魂の再設計(ソウル・リエンジニアリング)』計画……」

晶の声には、珍しく動揺の色が浮かんでいた。ファイルには、無数の被験者の名簿と、彼らが実験の過程で精神崩壊を起こしていく様子が、克明に記録されている。あの白衣の虚ろな人々は、この「魂の再設計」の犠牲者たちだったのだ。

「ふざけた連中だぜ……。神様ごっこでもしてるつもりかよ」

潤は吐き捨てたが、その顔は恐怖に引き攣っている。

晶は、別のファイルを開き、そこに記されたある署名を見て、息を呑んだ。

「……このサインは……まさか……」

それは、彼がかつて「友人」と呼び、その才能を尊敬しながらも、その危うさに警鐘を鳴らし続けていた、若き天才科学者のものだった。彼は数年前、ある研究機関で謎の失踪を遂げていた。

「……やはり、ここにいたのか……。そして、こんな狂った研究に手を貸していたとはな……。奴が追い求めたのは、人類の進化などではなかった。ただ、自らの知的好奇心という名の怪物に喰い尽くされた、哀れな道化だったというわけか……」

晶の呟きには、深い絶望と、どこか歪んだ憐憫のような響きが混じっていた。彼が揺に同行した理由は、この「友人」の痕跡を追うこと、そして、その研究の「成果」を確かめることだったのかもしれない。


その時、研究室の奥の扉が静かに開き、一人の男が姿を現した。仕立ての良いスーツを着こなし、穏やかな笑みを浮かべているが、その瞳は蛇のように冷たく、底知れない。それは、緋里が接触した、「組織」の幹部、筧(かけい)と名乗る男だった。

「ようこそ、九十九揺君。そして、そのお仲間たち。君たちがここへたどり着くことは、計算通りだよ」

筧は、まるで旧知の友人に語りかけるように、親しげに言った。その背後には、重装備の私兵たちが数人控えている。

「計算通り、ですって……?」揺は、筧を睨みつけた。

「そうだとも。君のその特異な精神構造、そして、君の中に響く『声』……それは、我々が長年探し求めてきた、最高の『器』の資質だ。君は、この『NORTHLAND』のシステムと融合し、新たな『預言者アザリア』となるべく選ばれたのだよ」

筧の言葉は、揺の心の最も脆い部分を的確に抉り出す。

「……私が、アザリアに……?」

「そうだ。君が苦しんできたあの『声』は、君を苦しめるためのものではない。それは、君を目覚めさせ、導くための『啓示』だったのだ。さあ、全てを受け入れなさい。そうすれば、君は苦しみから解放され、この歪んだ世界に真の秩序と調和をもたらすことができる」

筧は、まるで催眠術師のように、甘い言葉で揺を誘惑する。揺の瞳から、急速に抵抗の光が失われていく。


「揺、しっかりしろ! そいつの言うこと聞くんじゃねえ!」

潤が叫び、筧に飛びかかろうとするが、私兵たちにあっさりと取り押さえられてしまう。

晶は、筧と揺のやり取りを、興味深そうに観察していた。そして、おもむろに口を開いた。

「……あなたの言う『秩序』とは、人間の自由意志を奪い、画一的な思考を強制することですか。それは、もはや理想郷などではなく、精神の牢獄だ。私の友人は、それを理解していなかった。だが、私は違う」

晶は、隠し持っていた小型のデバイスを取り出し、研究室のメインコンソールに接続しようとする。

「何をする気だ!」筧が叫ぶ。

「この施設のメインシステムに、ささやかな『贈り物』をさせてもらいますよ。私の友人が残した、最後の『良心』とでも言っておきましょうか」

デバイスが接続された瞬間、研究室内のモニターが一斉に乱れ、警報音が鳴り響いた。

「馬鹿な! お前ごときに、このシステムのセキュリティが破れるはずが……!」

「あなたの知らないところで、技術は常に進化しているのですよ。特に、それを破壊するための技術はね」

晶の唇に、初めて冷酷な笑みが浮かんだ。


その頃、緋里は、筧に言われるがまま、「組織」の用意した「安全な場所」とされる一室に軟禁されていた。しかし、部屋の隅に隠されていた小型カメラと盗聴器を発見し、自分が利用されていることに気づき始めていた。彼女が筧に渡した揺たちの情報は、確実に彼らを窮地に追い込んでいる。後悔と恐怖に苛まれながらも、緋里は部屋からの脱出を試みようと、密かに動き出す。


聖のオンライン署名活動は、国際的なニュースアグリゲーターサイトで取り上げられ、予想以上の反響を呼んでいた。いくつかの人権団体やジャーナリストが、「NORTHLAND」と「組織」に対する調査を求める共同声明を発表する準備を進めているという情報も入ってきている。しかし、それは同時に、「組織」を追い詰め、彼らがより過激な手段に訴える危険性も孕んでいた。


「NORTHLAND」の研究室では、晶が仕掛けた「贈り物」――それは、友人が遺した研究データの中に偶然紛れ込んでいた、システムの脆弱性を突く強力なコンピュータウイルスだった――によって、施設の制御システムが暴走を始めていた。照明が明滅し、壁からは不気味な軋み音が響き、温室の植物たちが、まるで意思を持ったかのように異常な活動を開始する。

揺は、筧の甘言と、頭の中で鳴り響く「声」、そして目の前で起こっているカオスな状況に翻弄され、精神の平衡を完全に失いつつあった。

「……アザリア……私が、アザリアになるの……? そうすれば、もう苦しまなくて済むの……?」

彼女は、研究室の中央に鎮座する、巨大な水晶のような物体――それが、おそらく「魂の再設計」システムの中核――に向かって、ふらふらと歩き出す。その瞳は、もはや何も映していない。

「揺、行くな! そいつに近づいちゃダメだ!」

潤は、私兵の拘束を振りほどこうと必死にもがくが、叶わない。

筧は、この混乱の中にあっても、歪んだ笑みを浮かべていた。

「そうだ、九十九揺君。それこそが、君の運命だ。さあ、禁断の果実を味わうがいい。そして、我々と共に、新たな世界を……!」

揺の手が、水晶に触れようとした、その瞬間。

水晶は、内側から激しい光を放ち、甲高い金属音と共に、その表面に無数の亀裂が走り始めた。

何かが、終わろうとしている。そして、何かが、始まろうとしていた。それは、誰にとっても予想だにしない、回帰する螺旋の新たな一巡だったのかもしれない。

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