第十一章 歪な聖域の門、あるいは蝗害の予兆

アザリア記念公園は、その名が泣くほどに荒廃し、不気味な静寂に包まれていた。かつて「預言者アザリア」の功績を讃えるために植えられたという記念樹は枯れ果て、遊歩道には「組織」の私兵たちが撒いたのであろう、威嚇的なバリケードと監視カメラが無数に設置されている。その地下深くに眠るという「NORTHLAND」への入り口は、九十九揺たちの前に、まるで絶望への招待状のように、その重い口を閉ざしていた。

「……晶、例の図面と、潤が見つけたっていうメモ、もう一度照合して。どこかに、必ず見落としがあるはずよ」

揺の声は、疲労と焦燥で掠れていたが、その瞳だけが異様な光を宿してぎらついている。食料はとうに尽き、雨水を啜って渇きを癒やすような状況が数日続いていた。

潤は、そんな揺の横顔を盗み見ながら、内心で悪態をついた。(見落としがあんのは、アンタの頭の方だよ、ったく……)だが、口に出せば最後、この狂気の女に何をされるか分からない。

「おいおい、揺の姉さんよぉ。いくらなんでも、この厳戒態勢じゃ、アリの子一匹入り込む隙もねえぜ。一度、体勢を立て直した方が……」

「黙りなさい」揺は、潤の言葉を冷たく遮った。「『NORTHLAND』は、私を呼んでいるの。あなたには聞こえないの? あの子の声が……」

潤は、ぞっとした。揺の瞳は、明らかにここではないどこかを見ている。


晶は、そんな二人を意に介するでもなく、手元の端末で古い地籍図と潤が持っていた暗号めいたメモ――それは、亡くなった内部協力者の広報部の男が、万が一のためにと潤に託していた、アザリア神話の初版本の余白に走り書きされたものだった――を比較検討していた。

「……興味深いですね。この公園の地下には、旧市街時代から存在する、巨大な地下貯水槽のネットワークがあるようです。そして、このメモの記述……『蛇は水棲、龍の口より聖域へ』……おそらく、これがヒントでしょう」

「蛇……龍の口……」揺は、何かに取り憑かれたようにその言葉を繰り返した。

やがて、三人は公園の最も寂れた一角、かつて「龍神の滝」と呼ばれていた人工の滝の涸れた残骸の奥に、不自然に新しいコンクリートで塞がれた、古びたマンホールを発見した。それは、晶の解析によれば、地下貯水槽へ繋がる、忘れられた点検口の一つだった。


マンホールの蓋をこじ開けると、黴と汚泥のむせ返るような悪臭が噴き出してきた。揺は、躊躇うことなくその暗闇へと身を投じる。潤と晶も、顔を見合わせ、ため息をつきながらそれに続いた。

地下水路は、予想以上に複雑に入り組んでいた。汚水と瓦礫の中を、懐中電灯の僅かな光だけを頼りに進む。時折、壁の向こうから、低いうめき声や、金属を引きずるような音が聞こえてくるが、それが現実の音なのか、揺の幻聴が伝染したのか、もはや判別がつかない。

「……おい、揺。本当にこっちで合ってんのかよ。なんだか、どんどんヤバい雰囲気になってきてるぜ……」

潤の不安げな声に、揺は答えなかった。彼女の目は、暗闇のさらに奥、一点だけを見つめている。


一方、揺たちと袂を分かった丹羽緋里は、家族の身柄と引き換えに、「組織」の幹部の一人と接触していた。それは、かつて展望タワー事故の責任を一部負わされ、左遷されたと噂されていた男だった。男は、緋里に対し、「揺たちの計画を阻止し、彼女を『保護』することに協力すれば、家族の安全は保証する」と、甘言を弄した。

「……揺は、もう正気じゃないんです。あの子を……助けてあげてください」

緋里は、震える声で訴えた。だが、男の爬虫類のような瞳の奥に潜む冷酷な計算を、彼女はまだ見抜けていなかった。


月代聖もまた、独自の戦いを始めていた。彼女が送信した限定的な告発は、皮肉にも、一部の過激な陰謀論者や、センセーショナルな話題を求めるネットメディアによって歪曲され、拡散されていた。「アザリア神話の聖地NORTHLANDに眠る古代兵器」「預言者アザリアは宇宙人だった」――そんな荒唐無稽な見出しがネット上を飛び交い、結果として「組織」の公式発表の信憑性を揺るがすという、奇妙な現象が起きていた。

聖は、海外の人権団体と連携し、そうしたノイズの中から真実の欠片を拾い集め、国際社会に対して「NORTHLAND」の調査を求めるオンライン署名活動を開始する。その動きは小さくとも、確実に「組織」にとって新たな脅威となりつつあった。

「私は、暴力ではなく、言葉の力で戦います。それが、私にできる唯一のことだから……」

聖は、パソコンの画面を見つめながら、固く誓うのだった。


地下水路の最深部。揺たちは、ついに巨大な金属製の扉の前にたどり着いた。扉には、アザリア神話に登場する「双頭の蛇」のレリーフが刻まれている。

「……ここよ。ここが、『NORTHLAND』の入り口……」

揺が、恍惚とした表情で扉に手を伸ばした瞬間、扉が重々しい音を立てて内側から開き始めた。そして、中から現れたのは――武装した警備兵ではなかった。

白衣を着た、虚ろな目をした数人の男女。彼らは、まるで意思のない人形のように、揺たちを一瞥すると、再び施設内の暗がりへと消えていった。彼らの首筋には、奇妙なバーコードのような模様が刻まれている。

「……何なんだ、あいつら……」潤が絶句する。

施設内部は、近未来的な研究室と、古代の神殿を融合させたような、歪で冒涜的なデザインだった。ガラスケースの中には、正体不明の生物組織のようなものが培養され、壁には、理解不能な幾何学模様や、見たこともない文字がびっしりと刻まれている。そして、空気は、甘ったるい薬品の匂いと、何か動物的な腐臭が混じり合った、吐き気を催すような異臭に満ちていた。

晶は、その光景を目の当たりにして、初めて明確な表情の変化を見せた。普段のポーカーフェイスが崩れ、その瞳には、驚愕と、そしてある種の暗い歓喜のような色が浮かんでいた。

「……素晴らしい。これは、まさに……私の『友人』が追い求めていた……禁断の知識の宝庫だ」

彼の口から漏れた「友人」という言葉。それは、彼が揺に同行する際に口にした、「手向け」という言葉と不気味に共鳴していた。

揺は、そんな晶の異変にも気づかず、施設のさらに奥へと吸い寄せられるように歩き出す。彼女の脳裏には、あの幻聴が、より一層鮮明に響き渡っていた。

(おいで……おいで、私の可愛い小鳥……もうすぐ、全てから解放される……)

歪な聖域の門は開かれた。それは、救済への入り口か、それとも、蝗害のように全てを喰らい尽くす破滅の始まりなのか。潤の額には、嫌な汗がとめどなく流れ続けていた。

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