第九章 亀裂の協奏曲、あるいは血塗られた道標

データセンターの無機質な外壁は、月光を鈍く反射し、九十九揺と丹羽緋里の焦燥感を無言で煽っていた。サイバー攻撃による混乱は、まるで蜃気楼のように消え失せ、周囲は息詰まるほどの静寂と、鉄壁の警備体制に支配されている。

「……どうなってんのよ、これ。晶の奴、ハッタリかましただけじゃないでしょうね」

緋里の声は、不安と不信感で震えている。揺は、その言葉に苛立ちを覚えながらも、反論する気力すら湧いてこない。晶の能力を疑っているわけではない。だが、現実は非情だ。

「グチグチ言ってる暇があったら、潜入ルートを探しなさい。Cポイントの換気口はどうなっている?」

揺は、過去のデータと自身の経験則から、いくつかの可能性を探るが、ことごとく裏目に出た。換気口には新たに赤外線センサーが設置され、かつて使えた裏口はコンクリートで完全に封鎖されている。まるで、揺の思考パターンを熟知した何者かが、先回りして全ての逃げ道を潰しているかのようだ。

「……誰かが、私たちの情報を流しているとしか思えないわね」

揺の呟きは、誰に言うともなく、虚空に吸い込まれた。


焦りだけが空回りする中、揺は強引にメインテナンス用のハッチの一つに狙いを定める。セキュリティは甘いが、人目につきやすい危険な場所だ。

「私が先に行く。あなたは周囲を警戒、合図したら続いて」

揺がハッチに手をかけた瞬間、緋里が金切り声を上げた。

「待って、揺! あそこ! 監視カメラが増えてる! それも、今までなかった新型よ!」

緋里の指差す先には、確かに、以前の偵察では確認できなかった高性能カメラが、不気味な赤い光を点滅させながらこちらを捉えていた。揺の全身から血の気が引く。あまりにも不自然なタイミングでの増設。これは、罠だ。

「……クソッ!」

揺が悪態をついた、その時だった。遠くで警笛が鳴り響き、複数のサーチライトが一斉に二人を捉えた。

「侵入者発見! 包囲しろ!」

スピーカーから響く硬質な声。完全に包囲された。


「だから言ったじゃない! もう無理だって! ここまでよ、私たち!」

緋里は、その場にへたり込み、半狂乱で叫んだ。その瞳には恐怖と絶望の色が浮かんでいる。

「泣き言を言ってる場合じゃない! 逃げるわよ!」

揺は緋里の腕を掴み、強引に立たせようとする。だが、緋里は抵抗し、その手を振り払った。

「嫌だ! もうあんたの言うことなんか聞かない! いつもいつも自分勝手で、人の気持ちも考えないで! あんたのせいで、私の家族まで……!」

緋里の言葉は、堰を切ったように溢れ出し、揺の胸に突き刺さる。それは、揺自身が心の奥底で感じていた罪悪感そのものだった。

「……私のせいだって言うの? あなただって、この作戦に同意したはずでしょう!」

「騙されたのよ! こんな無茶な計画だって知ってたら、絶対に乗らなかった!」

二人の怒声が、サーチライトの光芒の中で虚しく響き渡る。仲間割れ。それは、「組織」が最も望む展開なのかもしれない。


その頃、狐坂潤が手配した古いバーの地下室で、月代聖はノートパソコンの画面を前に、唇を噛み締めていた。揺からの通信は、数分前に途絶えている。内容は「作戦失敗。告発、予定通り実行せよ」という、絶望的なほど短いものだった。

(本当に……これでいいの……?)

聖の指は、送信ボタンの上で震えている。告発文の内容は、あまりにも衝撃的で、あまりにも多くの人間の運命を狂わせる可能性を秘めている。そして、その中には、彼女が個人的に「許せない」と感じる、ある人物の個人的なスキャンダルも含まれていた。それは、事件の本質とは直接関係ないが、聖自身の鬱屈した感情が書き込ませた、ある種の「毒」だった。

「……潤さん。私、少しだけ、内容を変えてもいいでしょうか。どうしても、このままでは……」

「お嬢ちゃん、そりゃマズイだろ! 揺の奴が知ったら、ただじゃおかねえぞ!」

潤は狼狽した。だが、聖の瞳には、いつになく強い意志の光が宿っていた。

「これが、私にできる、最後の……いいえ、最初の『祈り』なんです」

聖はそう呟くと、いくつかのファイルに修正を加え、そして、選別した数カ所のメディアと、ある海外の人権団体だけに、告発メッセージを送信した。それは、揺が意図した全面的な暴露とは程遠い、限定的で、どこか個人的な感情の滲む「告発」だった。


データセンターから命からがら逃走する揺と緋里。緋里は逃走の際に足を捻挫し、揺の肩に寄りかかるようにして走っている。追っ手はすぐそこまで迫っていた。

「晶! 聞こえる!? 逃走ルートを指示して! 今すぐ!」

揺は、インカムに怒鳴りつける。

『……残念ながら、現在位置から最も安全なルートは存在しません。あなたたちの行動は、完全に「組織」に筒抜けです。内部協力者は、おそらく……もうこの世にいないでしょうね』

晶の返答は、氷のように冷酷だった。

『そして、聖さんの告発ですが……どうやら、彼女は独自の判断で内容を改変し、送信先も限定したようです。当初の目的を達成するには、程遠い結果と言わざるを得ません』

「……あの小娘が……!」

揺の脳裏に、聖の怯えたような、それでいてどこか芯の強い瞳が浮かんだ。裏切られたという怒りよりも、むしろ、自分の計画の甘さと、仲間を信じきれなかったことへの自己嫌悪がこみ上げてくる。


絶体絶命。だが、その時、揺のインカムが、微かなノイズと共に、別の声を受信した。それは、聖が告発メッセージを送った海外の人権団体が、独自にハッキングして入手したという、「組織」の内部通信の断片だった。

『……例の展望タワー跡地……「NORTHLAND」と呼ばれるエリアの地下……最終プロトコル……実行……』

途切れ途切れの音声。だが、「NORTHLAND」という言葉は、鮮明に揺の鼓膜を打った。アザリア神話における「約束の地」。それが今、不吉な響きを伴って、彼女の前に新たな道標として現れた。

(データセンターは陽動だった……? 真の目的は、最初から……)

揺の瞳が、狂的な光を帯び始める。失敗と裏切り、そして仲間割れ。その全てが、この「NORTHLAND」という一点に収束していくような、歪んだ高揚感が彼女を包み込んだ。

「緋里、しっかりしなさい! 作戦変更よ!」

揺は、負傷した緋里の腕を掴み、その目に力強い(あるいは、もはや常軌を逸した)光を宿して言った。

「次の目標は、『NORTHLAND』……! 何があっても、あそこを叩き潰す……!」

亀裂の入った協奏曲は、血塗られた道標の先で、さらに破滅的なフィナーレを迎えようとしていた。

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