第六章 追跡者の影、あるいはガラスの城の亀裂

狐坂潤の事務所にかかってきた一本の脅迫電話は、九十九揺たちの置かれた状況が一変したことを明確に告げていた。もはや、アザリア神話の真相を探るという知的なゲームではない。これは、巨大な「組織」との生存を賭けた戦いだ。


「ネズミは一匹残らず駆除する、か。随分と古典的な脅し文句だけど、奴らが本気なのは間違いない」

潤は事務所のシャッターを全て下ろし、普段はアダルトビデオの棚で隠されている奥の隠し部屋に揺たちを招き入れた。そこは、潤の趣味である年代物の映写機やフィルム缶が無造作に積まれた、文字通りのアジトだった。

「まず、敵の正体を探る必要があるわ」揺は冷静に状況を分析し始める。「あの企業ビルが本丸だとして、その背後にいる『組織』の規模、目的、そして弱点。それを見極めないと、手の打ちようがない」

月代聖は、恐怖で顔を青くしながらも、必死に記憶をたぐり寄せる。

「教団の上層部が、時折『委員会』という言葉を口にしていました。企業の重役だけでなく、政財界の大物も名を連ねているとか……彼らは、都市の再開発計画を隠れ蓑に、何か巨大な利権を動かそうとしていると……」

「都市伝説じみた話だな」潤はこめかみを掻いた。「だが、火のない所に煙は立たない。その『委員会』とやらが、俺たちの敵の正体かもしれない」

緋里は、ハッキングの得意な知人に連絡を取り、例の企業や関連団体の情報を集め始めた。その表情は真剣そのものだ。いつもの軽薄さは影を潜めている。

周防晶は、部屋の隅で古いフィルムを手に取り、光にかざしながら静かに言った。

「ガラスの城は、内側からの衝撃に最も脆い。彼らが隠蔽しようとしている『何か』……それは、彼らにとってのアキレス腱でもあるはずだ」


最初の計画は、聖が持つ「証拠」――アザリア神話が企業によって捏造された経緯を記した内部文書のコピーや、事故当時の隠蔽工作に関わった人物のリスト――を、信頼できるジャーナリストにリークすることだった。だが、その準備を進める間にも、「組織」の追跡は始まっていた。

潤が手配した次の隠れ家へ移動しようとした矢先、揺たちが乗った中古のワゴン車は、数台の黒塗りのセダンに執拗に追跡された。カーチェイスは深夜の首都高速で繰り広げられた。揺は巧みなハンドルさばきで追っ手を振り切ろうとするが、敵は無線で連携を取り、じりじりと包囲網を狭めてくる。

「揺、次の出口で降りて! あそこなら、昔よく遊んだ路地がある!」

緋里が叫んだ。揺は緋里の指示に従い、急ハンドルで高速を降りる。入り組んだ下町の路地を、タイヤを軋ませながら疾走する。途中、工事中の行き止まりに追い詰められそうになるが、緋里の土地勘と、揺の咄嗟の判断で、間一髪で危機を脱した。

「……どうやら、本気で私たちを社会的に抹殺するだけじゃなく、物理的にも消すつもりらしいわね」

息を切らしながら、揺は吐き捨てた。黒いセダンの一台が、執拗に追いかけてくる。その運転席には、表情のない男の顔が見えた。彼らは、感情を持たない駒なのだ。


新たな隠れ家は、潤が「絶対に安全だ」と太鼓判を押す、場末のストリップ劇場の楽屋裏だった。かつて潤が照明係として働いていた縁で、今も支配人とは懇意にしているらしい。猥雑な香水の匂いと、古びた衣装の黴臭さが混じり合う、奇妙な空間だ。

「企業内部に、手引きしてくれそうな人間はいないのかしら」

聖が、疲れ果てた表情で呟いた。

潤は唸りながら、古いアドレス帳をめくった。「一人だけ、心当たりがいる。昔、少し世話になった男で、今は例の企業の広報部にいるはずだ。だが、あいつが俺たちの味方になってくれるかどうか……」

接触は、極秘裏に行われた。潤が指定した寂れたバーで待っていると、やつれた表情の中年男が現れた。男は最初、潤の頼みを頑なに拒否したが、潤が「アザリア」の名前と「展望タワーの事故」について仄めかすと、その顔色を変えた。

「……あの事故は、禁句なんだ。会社では誰も口にしない。だが、俺は知っている。あのタワーには、公にできない『積み荷』があったことを。そして、その『積み荷』のせいで、多くの人が……」

男はそれ以上語らなかったが、後日、匿名で揺たちのもとに一つのデータチップが送られてきた。そこには、企業の厳重なセキュリティシステムに関する情報と、いくつかの内部文書の断片が含まれていた。危険な賭けだったが、わずかな光が見えた気がした。


その夜、周防晶が、いつになく真剣な面持ちで揺に話しかけてきた。

「彼らが最も恐れているのは、秩序の崩壊だ。彼らが築き上げた、虚構の平和と安定が揺らぐこと。聖さんの告発は、その最初の亀裂になるだろう。だが、それだけでは足りない」

晶は、一枚の衛星写真のようなものを揺に示した。それは、例の企業ビルを中心とした都市の俯瞰図だったが、いくつかのポイントが赤くマーキングされている。

「これは、彼らの『神経系統』だ。情報、物流、エネルギー……都市のライフラインを支配する重要拠点。もし、これらの機能が同時に、短時間でも麻痺したら、どうなると思う?」

揺は息を呑んだ。晶が提案しているのは、単なる情報漏洩ではない。都市機能への直接的な攻撃、サイバーテロにも等しい行為だ。

「危険すぎる。私たちだけでは不可能よ」

「不可能を可能にするのが、君の仕事じゃなかったのかい? 九十九揺」

晶の瞳の奥が、初めて揺には読めない妖しい光を宿していた。彼は一体何者なのか。そして、何を目的としているのか。

「なぜ、そこまでするの?」

「さあね。退屈しのぎ、とでも言っておこうか。あるいは……昔、少しだけ世話になった『友人』への、ささやかな手向けかもしれない」

晶はそう言うと、ふっと笑みを消した。その横顔に、揺は初めて、彼自身の過去の痛みの影のようなものを見た気がした。


「組織」の圧力は、日に日に強まっている。隠れ家の周囲には、常に監視の目が光っているのを感じる。潤が手配した食料の配達人さえ、どこかぎこちない動きをしている。

揺は、自分の中にあったはずの冷静さが、少しずつ侵食されていくのを感じていた。プロとして、感情に流されるのは三流のやることだ。だが、この巨大な悪意を前にして、ただ計算高く立ち回るだけでは、いずれ飲み込まれてしまうだろう。

ガラスの城に亀裂を入れる。そのためには、自分自身もまた、何かを賭ける必要があるのかもしれない。揺は、ストリップ劇場の薄暗い舞台袖で、スポットライトの当たらない自分の影を見つめていた。

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