第四章 地下迷宮の黒い羊、あるいは啓示の代償

臨海副都心の再開発地区は、昼間だというのに人影もまばらで、打ち捨てられた重機やプレハブ小屋が、まるで巨大な墓標のように点在していた。九十九揺は、狐坂潤から送られてきた古い地図を頼りに、目当ての地下鉄廃駅の入り口を探し当てた。コンクリートで固められた階段は蔦に覆われ、奥は漆黒の闇に包まれている。ここが鉄血のイサクのアジトで間違いないだろう。


揺は周囲に人の気配がないことを確認すると、音もなく階段を下りていった。懐中電灯の光が、湿った壁に描かれた稚拙な落書きや、錆びついた広告看板を照らし出す。カビと埃の匂いが鼻をつく。しばらく進むと、通路の奥から微かな話し声と、発電機の低い唸りが聞こえてきた。見張りだ。揺は息を殺し、柱の影に身を潜める。男が二人、パイプ椅子に座り込み、退屈そうに煙草を燻らせている。揺は足元に転がっていた空き缶を拾い上げ、通路の反対側へ力任せに投げつけた。金属音が響き渡り、見張りの男たちが慌ててそちらへ向かう。その隙に、揺は猫のように身を翻し、彼らの背後をすり抜けた。


地下深く、迷路のように入り組んだ通路の先に、不自然に新しい鉄の扉があった。扉の向こうから、微かに緋里の声が聞こえる。間違いない、ここだ。揺は用意してきた細い金属製のピックを取り出し、鍵穴に差し込んだ。数秒の沈黙の後、カチリ、と小さな音が響く。プロの仕事だ。


扉の先は、だだっ広い地下プラットフォームを利用した粗末な居住空間だった。数人の男女が、毛布にくるまって眠っている。そして、部屋の隅にある鉄格子のはめられた小部屋に、丹羽緋里と月代聖の姿があった。

「揺!」

緋里が、掠れた声で揺の名を呼んだ。その顔には殴られたような痣があり、唇の端が切れている。だが、その瞳にはまだ反抗の光が宿っていた。一方、月代聖は、以前の狂信的な輝きを失い、人形のように虚ろな目で床の一点を見つめている。彼女の細い肩が、小刻みに震えていた。

「聖さん、しっかりして! 揺が助けに来てくれたのよ!」

緋里が聖の肩を揺するが、聖は弱々しく首を振るだけだった。

「……もう、だめ……アザリア様の啓示が……鉄血のイサク様は……」

その言葉は途切れ途切れで、意味をなさなかった。


揺が鉄格子の鍵を外そうとした、その時だった。

「ネズミが紛れ込んでいるとはな。それも、二匹も」

背後から、野太い声が響いた。振り返ると、そこには屈強な体躯の男が立っていた。鋭い眼光、無精髭に覆われた厳つい顔。胸元には、例の歪んだ十字架の大きなペンダントが揺れている。鉄血のイサク。その両脇には、鉄パイプや角材を手にした屈強な男たちが数人、威圧するように立ちはだかっていた。

「『第二の福音』はどこだ」

イサクは、揺を睨みつけながら低い声で言った。

「あれは、アザリア様がお与えになった新たな光。我ら選ばれし者だけが、その輝きに浴することができるのだ。お前のような不信心者に渡すわけにはいかん」

「光、ね。その光とやらは、誰を照らしているのかしら」

揺は冷静に言い返した。

「その羊皮紙一枚で、世界が救われるとでも? あなたたちの言う『北の理想郷』とやらは、一体どこにあるの?」

「黙れ、瀆神者め!」イサクが激昂し、一歩前に踏み出す。「アザリア様は実在する! かつて、あの北の空より飛来され、我らに救済の道を示されたのだ! 『第二の福音』は、その証! これから訪れる『大いなる清算』の日に、我らを導く道標となる!」

イサクの言葉は、熱に浮かされたように淀みない。だが、その瞳の奥には、揺だけが見抜けるわずかな動揺があった。彼は、心のどこかで疑っているのだ。自分たちの信じるものが、本当に正しいのかどうかを。


その時、アジトの入り口の方から、大きな破壊音と怒号が響き渡った。

「アザリアの名を騙る者ども! 神罰の鉄槌を喰らえ!」

石動巌だった。彼は手にした巨大なレンチを振り回し、イサクの部下たちを次々となぎ倒していく。その姿は、まさに怒れる獣神のようだ。

アジト内は一瞬にして大混乱に陥った。イサクは舌打ちし、部下たちに巌の迎撃を命じる。

「揺、今よ!」

緋里が叫んだ。揺は頷き、聖の手を引いて鉄格子から引きずり出す。聖はまだ怯えていたが、緋里に叱咤され、よろよろと立ち上がった。

「『第二の福音』は……私が……」聖が何かを言いかけたが、その言葉は爆音に遮られた。巌が、近くにあったドラム缶を蹴り倒したのだ。


混乱の中、揺は緋里と聖を庇いながら、出口へと向かう。イサクは「福音を渡せ!」と叫びながら追いかけてくるが、巌がそれを阻む。

「お前の信じるものなど、砂上の楼閣だ!」

巌の言葉が、イサクの顔を歪ませた。


地上への階段を駆け上がろうとした時、聖がふいに立ち止まった。

「待って……『第二の福音』は、あんな羊皮紙なんかじゃない……本当の啓示は……あそこよ」

聖が指さしたのは、プラットフォームの壁に描かれた、巨大なフレスコ画だった。それは、預言者アザリアが「北の空から飛来する」場面を描いたものだが、その描写は稚拙で、どこか歪んでいる。よく見ると、アザリアが乗っている「飛来物」は、かつてこの都市のランドマークだった展望タワーの残骸に酷似していた。そして、そのタワーの先端は、まるで槍のように、巨大な企業の本社ビルに突き刺さっている。あの、周防晶が言っていた「作られたオーロラ」のイメージと重なった。

「あれは……事故だったのよ。アザリア様は、ただの……」

聖の声は、絶望と、そして解放の色を帯びていた。


その時、背後から金属的な音が響き、周防晶がいつの間にか立っていた。彼はフレスコ画を一瞥し、そして揺に微笑みかけた。

「ようやく気づいたようだね、黒い羊さん。啓示の代償は、案外つまらないものだっただろう?」

晶の手には、どこから持ち出したのか、一枚の設計図のようなものが握られていた。それは、あの展望タワーの、事故当時の構造図のようにも見えた。

鉄血のイサクの怒号と、石動巌の咆哮が、地下迷宮の奥からまだ響いてくる。

揺は、聖が指し示した壁画と、晶の持つ設計図を交互に見つめた。何かが、始まろうとしている。あるいは、終わろうとしているのかもしれない。

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