第三章 偶像の影、あるいは失われた羊皮紙

狐坂潤の事務所は、いつにも増して甘ったるい芳香剤の匂いが充満していた。潤本人はカウンターの奥で帳簿らしきものとにらめっこしていたが、九十九揺の姿を認めると、待ってましたとばかりに顔を上げた。

「揺ちゃん、グッドタイミング! 例の『終末真理教会』の件、面白いことになってきたぜ」

揺は無言でソファに腰を下ろし、先を促す。緋里から送られてきた車のナンバーと、倉庫から木箱が運び出されていたという情報は、すでに潤にも共有済みだ。

「例のフロッピーディスク、『第一の福音』ってやつは、どうやら教団の穏健派が持ってたお宝らしい。で、それを嗅ぎつけた強硬派が、別の『お宝』を持ち逃げしたってわけだ。それが、『第二の福音』。内容は誰も知らない、まさに秘宝中の秘宝ってやつさ」

潤は芝居がかった口調で言い、一枚の写真を揺に示した。そこには、古びた羊皮紙のようなものに、見たこともない文字がびっしりと書き込まれている画像データが写っていた。おそらく、何かの資料から抜き出したものだろう。

「で、だ。強健派の連中、月代聖ちゃんも一緒に連れ去ったらしい。彼女、穏健派の重鎮の娘だったみたいでね。人質ってとこかな」

「……依頼は?」

揺は淡々と尋ねた。潤の饒舌な説明には、すでに結論が見えている。

「ご名答。その『第二の福音』の奪還と、月代聖ちゃんの保護。クライアントは穏健派の残党。報酬は……これまでの揺ちゃんの仕事の中でも、トップクラスだ」

潤は指で具体的な金額を示した。確かに、破格と言っていい。だが、それだけ危険が伴うことも意味している。

揺は数秒間黙考した。フロッピーディスク、北の福音、預言者アザリア、石動巌の怒り、そして月代聖のあの狂信的な瞳。バラバラだったピースが、不気味な絵を形作り始めている。面倒事はごめんだが、この胸騒ぎの正体を突き止めたいという、プロとしての奇妙な疼きがあった。そして何より、提示された金額は魅力的だ。

「……引き受ける」

「決まりだな!」潤は満足そうに頷き、「ただし、強硬派の連中はかなり過激らしい。リーダーは『鉄血のイサク』なんて呼ばれてる、筋金入りの狂信者だ。くれぐれも油断するなよ」と付け加えた。鉄血のイサク。また新しい名前だ。この仕事は、固有名詞の暗記テストでもしている気分になる。


情報収集のため、揺は数日かけて「終末真理教会」の周辺を嗅ぎまわった。古びた図書館で過去の新聞記事を漁り、ネットの深層に潜む断片的な情報を繋ぎ合わせる。その過程で、再びあの男に出会った。周防晶すおうあきら。薄暗い路地裏で、野良猫に餌をやっていた彼は、揺の姿を認めると、ふわりと笑った。

「やあ、また会ったね。狐の使いさん」

晶の言葉は、いつもながら掴みどころがない。

「『北』に近づきすぎると、凍傷を負うよ」

「何が言いたいの?」

「彼らが追い求める『北の理想郷』は、蜃気楼のようなものさ。そして、預言者アザリアという太陽もね。ひょっとしたら、誰かが巧妙に作り上げたオーロラかもしれない」

晶はそう言うと、一匹の猫を抱き上げた。その猫の首輪には、小さな金属片が揺れていた。それは、どこかで見たことがあるような、歪んだ十字架の形をしていた。

「忠告しておくけど、鉄血のイサクは危険だよ。彼は、本気で世界を『清算』するつもりだからね。アザリアの御名において」

晶はそれだけ言うと、猫と共に闇に消えた。揺は、彼が残した「作られたオーロラ」という言葉の意味を考えていた。預言者アザリアは、何者かによって仕立て上げられた偶像だというのだろうか。


石動巌との再会は、意外な場所だった。湾岸地区の、今は使われていない古い造船所のドック。巌はそこで、黙々とサンドバッグを叩いていた。その拳には、教会への憎悪が凝縮されているかのようだ。

揺が声をかけると、巌は一瞬動きを止め、獣のような鋭い視線を向けた。

「……何の用だ」

「アザリアについて、知っていることを教えてほしい」

巌は鼻で笑った。「なぜ俺がお前のような奴に?」

「私は『第二の福音』を探している。それが、あなたにとっても無関係ではないはずだ」

揺の言葉に、巌の眉がわずかに動いた。

「……アザリアは、俺の家族を奪った。奴の甘言に騙され、全てを捧げた挙句、捨てられたんだ。あの男は預言者なんかじゃない。ただの詐欺師だ」

巌の声は、抑えようのない怒りに震えていた。

「『第二の福音』……それが本物なら、アザリアの嘘を暴く証拠になるかもしれない。だが、奴らはそれを隠蔽するだろう。あるいは、自分たちに都合よく書き換えるかだ」

巌は、それ以上は語ろうとしなかった。揺も、深くは追及しない。彼の目的と自分の目的が、一時的に交差しただけだ。馴れ合うつもりはない。


事務所に戻ると、珍しく潤が慌てた様子で揺を迎えた。

「揺ちゃん、大変だ! 緋里ちゃんが……!」

潤が見せたのは、緋里の携帯端末から送られてきた短い動画だった。薄暗い地下室のような場所に監禁され、怯えた表情を浮かべる緋里の姿が映っていた。そして、動画の最後に、鉄パイプを持った男たちの影が一瞬だけ見えた。

「鉄血のイサクの連中に捕まったらしい! 月代聖の行方を追って、深入りしすぎたんだ!」

潤は頭を抱えている。揺は、動画に映っていた地下室の壁の染みや、わずかに聞こえる環境音に意識を集中させた。緋里の危機的状況は理解できるが、感情的になるのはプロのやることではない。

だが、心の奥底で、冷たい怒りのようなものが静かに燃え上がるのを感じていた。それは、緋里に対する友情などではない。自分の仕事の領域を荒らされ、関係者を危険に晒した連中に対する、プロとしての当然の憤りだ。

「場所の見当は?」

揺は冷静に尋ねた。

「緋里ちゃんが最後に連絡してきたのは、臨海副都心の再開発地区だ。古い地下鉄の廃駅があるらしいが……」

「行く」

揺は短く告げた。緋里の救出。月代聖の保護。そして、「第二の福音」の確保。どれもこれも面倒なことこの上ないが、引き受けた以上、やり遂げるしかない。

鉄血のイサク。預言者アザリア。そして、見え隠れする何者かの影。

揺は、夜の闇へと続く階段を、ためらいなく下りていった。北風が、頬を鋭く撫でていく。

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