第二章 北風の噂と、錆びた十字架

翌日、九十九揺は約束通り狐坂潤のねぐらで報酬の札束を受け取った。厚みは昨日手渡したフロッピーディスクとは比べ物にならないが、揺の心には何の感慨も湧かない。ただの紙切れであり、次の仕事までの燃料だ。


「いやあ、毎度あり。揺ちゃんのおかげで、今月も枕を高くして眠れそうだよ」

潤は札束を数える揺をいやらしい目で見ながら、新しいゲームソフトのパッケージを弄んでいる。そのパッケージには、ファンタジー世界の屈強な戦士が、これまた屈強なドラゴンと戦うイラストが描かれていた。現実逃避も大概にしろ、と揺は内心で毒づく。

「それで、例の『終末真理教会』だけどね」

潤が不意に真顔になり、声を潜めた。

「どうやら、あのフロッピー一枚で終わる話じゃなさそうなんだ。内部で何か揉めてるらしくてね、きな臭い噂がいくつか俺の耳にも入ってきてる」

「興味ない」

揺は札束を鞄にしまいながら、即答した。面倒事の匂いがする。それだけで、関わる理由は消滅する。

「そう言うなよ。ひょっとしたら、またうまい汁が吸えるかもしれないぜ? 例えば、教団の『秘宝』の強奪とか、あるいは……」

潤は言葉を濁し、揺の反応を窺うように上目遣いになった。

「必要なら連絡する」

揺はそれだけ言い残し、事務所を後にした。潤の口車に乗せられるのはごめんだ。


揺のアパートは、繁華街の喧騒から少し離れた、古い集合住宅の一室だった。最低限の家具と、仕事に必要な機材がいくつか。それ以外には何もない、殺風景な空間だ。窓の外には、隣のビルの壁しか見えない。それが揺にとっては好都合だった。余計な情報は、思考を鈍らせるだけだ。

シャワーを浴び、安物のインスタントコーヒーを啜る。テレビはつけない。ニュースもワイドショーも、他人事の世界の出来事だ。揺の世界は、この半径数メートルの部屋と、潤から与えられる仕事だけで完結している。それで十分だった。


昼下がり、気分転換に外に出た揺は、駅前の広場で奇妙な一団を目にした。揃いのくすんだ灰色のローブをまとい、小さなパンフレットを配っている。その胸元には、歪んだ十字架をモチーフにしたと思われる、稚拙なデザインのバッジが付けられていた。「終末真理教会」の信者たちだ。

「まもなく訪れる『大いなる清算』の日に備えよ! 北の預言者、アザリア様の言葉に耳を傾けるのです!」

初老の男が、拡声器を使って大声で叫んでいる。その声は空々しく、道行く人々は眉をひそめて彼らを避けて通る。揺もまた、彼らに関心を示すことなく通り過ぎようとした。

その時だった。

「アザリアだと? ふざけるな……あの男が、預言者だと?」

低い、地の底から響くような声が、信者たちの喧噪を切り裂いた。声の主は、岩のように大柄な男だった。短く刈り込んだ髪、彫りの深い顔立ち、そして何よりも印象的なのは、その両の目に宿る、静かで、しかし底知れない怒りの光だった。石動巌いするぎいわお。揺は、その男に見覚えがあった。かつて一度だけ、潤の紹介で仕事をしたことがある。その時は、ある組織の内部情報を探るという、どちらかといえば荒事だった。

巌は信者たちのにじり寄ると、パンフレットをひったくり、無言で握りつぶした。

「貴様ら……アザリアの名を騙り、何を企んでいる?」

信者たちは巌の威圧感に怯え、後ずさる。拡声器を持った男が、震える声で反論した。

「な、なんだ貴様は! アザリア様を侮辱する気か!」

「侮辱? 事実を言っているまでだ」

巌の言葉は短く、重い。一触即発の雰囲気に、広場を行き交う人々が遠巻きに見守り始めた。揺は、近くのカフェのテラス席に座り、アイスコーヒーを注文した。特等席だ。

結局、騒ぎは巡回中の警官が駆けつけたことで、あっけなく幕を閉じた。巌は警官に何かを呟くと、信者たちに鋭い一瞥をくれ、広場を去っていった。残された信者たちは、蜘蛛の子を散らすように姿を消した。

「北の預言者、アザリア……か」

揺は、巌の去った方向を見つめながら、その名前を反芻した。また新しい固有名詞が増えた。そして、厄介事の匂いも。


その日の夕方、揺の携帯端末が着信を告げた。表示された名前は、丹羽緋里。無視しようかと思ったが、昨日の今日だ。何か情報を持っているかもしれない。

「もしもし、揺? ちょっと聞いてよ!」

電話に出るなり、緋里の甲高い声が鼓膜を叩いた。

「あの月代聖って子、やっぱり変よ! 今日、こっそりあの倉庫を見に行ったら、なんか運び出してるのよ! 木箱みたいなのを、何人かで!」

「……それで?」

「それでって、あれ絶対ヤバいものだって! 顔つきが、みんな真剣で、ピリピリしてて……なんか、悪い予感がするのよ!」

緋里の言葉には、いつもの軽薄さがない。本気で心配しているか、あるいは、本気で首を突っ込む気でいるかのどちらかだ。

「あなたには関係ないでしょう」

「関係なくないわよ! だって、私たちがあのフロッピーを届けたのが始まりなんでしょ? もしあれが、何かとんでもない事件の引き金になったとしたら……」

「責任を感じる、とでも?」

揺の言葉に、緋里は一瞬詰まった。

「……そういうわけじゃないけど、でも、気になるじゃない! ねえ、揺もそう思わない?」

思わない。揺は心の中で即答した。だが、口に出したのは別の言葉だった。

「情報は?」

「え? あ、うん、あの倉庫の場所と、あと、あいつらが使ってた車のナンバーなら控えてあるけど……」

「それを潤に流しておいて。何か分かるかもしれない」

「え、揺、手伝ってくれるの!?」

緋里の声が、期待に弾んだ。

「手伝うとは言っていない。ただ、状況を把握しておくだけ」

揺はそう言って通話を終えた。なぜ、こんな面倒事に片足を突っ込む気になったのか、自分でもよく分からない。ただ、あの月代聖の、狂信的でありながらどこか脆さを感じさせる瞳と、巌の静かな怒りが、妙に頭の片隅に引っかかっている。そして、「北の福音」と「預言者アザリア」。それらが何を意味するのか、ほんの少しだけ、知りたくなったのかもしれない。


揺はコートを羽織り、再び狐坂潤の事務所へと向かった。錆びた十字架が、夕闇の中で不気味なシルエットを描いているように見えたのは、気のせいだろうか。潤なら、この北風が運んでくる噂の正体を、何か知っているかもしれない。もちろん、それ相応の対価と引き換えに。

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