NORTHLAND:虚構神域

kareakarie

第一章 薄暮の預言、あるいはフロッピーディスク

アスファルトの亀裂から、名も知らぬ雑草が律儀に顔を出す季節になった。そんなものに感傷を覚える趣味は、九十九揺つくもゆらにはない。ただ、視界の端に映るその緑が、やけに目に染みる気がしただけだ。揺は、古びた雑居ビルの階段を三階まで上り、一番奥のドアをノックもせずに開けた。


「ようこそ、迷える子羊ちゃん。今日の君は、開始時刻の三分前に到着だ。感心感心」

室内には、安っぽい模造革のソファに浅く腰掛け、ゲーム機のコントローラーを握る男がいた。狐坂潤こさかじゅん。胡散臭い笑顔を顔に貼り付けたまま、こちらを見もせずに言う。部屋には甘ったるい芳香剤の匂いと、それ以上に濃密な潤の体臭が混じり合って漂っている。換気という概念が、この男の辞書にはないらしい。

「用件は?」

揺は、壁際に無造作に積まれたアダルトビデオの山に一瞥もくれず、冷めた声で応じた。潤が経営するこの「ビデオ鑑賞個室『桃源郷』」は、彼の趣味と実益を兼ねたアジトであり、揺にとっては仕事の窓口でしかない。

「つれないねえ、揺ちゃんは。まあ、それが君のいいところでもあるんだけど」

潤はコントローラーを放り投げ、ソファから立ち上がると、薄暗い部屋の奥にある金庫に向かった。ダイヤルを回す音が、やけに大きく響く。

「今回のブツは、これだ」

金庫から取り出したのは、一枚のフロッピーディスクだった。それも、今どき骨董品屋でもお目にかかれるかどうか怪しい、ペラペラの五インチタイプ。ラベルには、掠れた手書き文字で「北方より来たる福音 第一節」と記されている。

「……冗談でしょう?」

さすがの揺も、眉をひそめた。

「冗談であってほしいのは、こっちの方さ。でも、クライアントは大真面目。なんでも、『終末真理教会』とかいう、イカれた名前の団体さんでね。彼らにとっちゃ、これが神の言葉そのものらしい」

潤はフロッピーディスクを揺に手渡しながら、肩をすくめた。

「これを、明日の日没までに、指定された場所へ届ける。ただそれだけ。簡単なお仕事だろう?」

「報酬は?」

「いつもの三割増し。それだけ、このフロッピーが『貴重』ってことさ。もっとも、誰にとっての価値かは知らんけどな」

潤は指で三を示し、下卑た笑みを浮かべた。揺はフロッピーディスクを受け取り、ジャケットの内ポケットにしまい込む。厚みも重みもほとんど感じない。こんな薄っぺらなプラスチックの板に、大枚をはたく人間がいる。世界はいつだって、理解不能な人間の集合体だ。


ビルを出ると、空はすでに茜色に染まり始めていた。高架線を走る電車の轟音が、夕暮れの気怠い空気を引き裂いていく。揺は駅へと向かう人の流れに逆らい、指定された受け渡し場所へと足を向けた。携帯端末に表示された地図によれば、目的地は湾岸地区の古い倉庫街の一角にあるらしい。

途中、高架下の薄暗い通路で、見慣れた人影が揺を待っていた。

「遅かったじゃない、揺!もう陽が沈んじゃうわよ!」

丹羽緋里たんばひかり。肩にかかる鮮やかな赤毛を揺らし、子供のように頬を膨らませている。彼女もまた、潤を通じて揺と組むことが多い「運び屋」の一人だが、その仕事ぶりは揺とは対照的に、感情的で、どこか危なっかしい。

「約束の時間にはまだ早い。それに、あなたと待ち合わせした覚えはないけど」

「細かいことはいいのよ!それより、今回の依頼、なんかワクワクしない?『終末真理教会』ですって!どんなお宝が絡んでるのかしら!」

緋里は目を輝かせ、勝手に揺の隣に並んで歩き始めた。その手には、彼女が「聖なる鉄槌」と呼んで憚らない、鈍色の大型スパナが握られている。もちろん、それで何かを殴りつけるような仕事は、ここしばらく請け負っていないはずだが。

「お宝、ね」

揺は緋里の能天気な期待を鼻で笑った。あのフロッピーディスクの中身が、聖書の一節だろうが、預言者の戯言だろうが、揺にとってはただのデータでしかない。金になればそれでいい。それ以上でも、それ以下でもない。


倉庫街は、潮の香りと錆の匂いが混じり合った、独特の空気に包まれていた。打ち捨てられたコンテナが墓標のように並び、割れた窓ガラスからは、夕闇が忍び込んでいる。人気のない一角に、目的地の古いレンガ造りの倉庫があった。入口の鉄の扉は固く閉ざされ、その前には、黒い質素なローブをまとった女が一人、背筋を伸ばして立っていた。

「お待ちしておりました、『運び手』の方ですね」

女は、揺と緋里に気づくと、深々と頭を下げた。歳の頃は揺たちとそう変わらないように見えるが、その表情は仮面のように硬く、声には抑揚がない。月代聖つきしろひじり。彼女がこの倉庫の管理人であり、今回のフロッピーディスクの受取人らしい。

「預言の使徒、月代聖と申します。この度は、我らが至宝の『言葉の断片』を、かくも速やかに運んでいただき、感謝の念に堪えません」

聖は、恭しく両手を差し出した。その指は細く、長く、血の気が失せているように白い。

揺は無言でフロッピーディスクを取り出し、聖の手に渡した。聖はそれを、まるで赤子を抱くかのように、両手でそっと受け取った。その瞳には、かすかな、しかし確かな熱が灯っている。

「ああ、これで、失われた『北の福音』が、再び我らの元に……」

聖はフロッピーディスクを胸に抱き、恍惚とした表情で天を仰いだ。その姿は、傍から見れば滑稽でしかないが、彼女にとっては、これが世界の真理なのだろう。

「それじゃ、こっちはこれで失礼するわ。報酬はちゃんと狐坂に渡しといてよね!」

緋里が、場の空気を読まずに明るい声を上げた。聖は、我に返ったように緋里に視線を移し、わずかに眉をひそめたが、すぐにいつもの無表情に戻った。

「……ええ、約束は違えません。主の御名において」

聖は再び深く頭を下げた。その言葉には、揺には理解できない、重い響きが込められていた。


倉庫を後にし、駅へと向かう道すがら、緋里が不満そうに口を尖らせた。

「なによ、あの子!感じ悪いったらありゃしない!せっかくの『終末真理教会』なのに、全然ドラマチックじゃなかったわ!」

「期待外れだった?」

「当然でしょ!もっとこう、秘密の儀式とか、怪しげな祭壇とか、そういうのがないと!」

緋里は「聖なる鉄槌」を振り回し、不満を表明する。揺は、そんな緋里の横顔を黙って見つめていた。

ドラマチックなことなど、この世界にはそうそう転がっていない。あるのは、誰かの身勝手な欲望と、それに振り回される人間たちの、どこまでも凡庸な現実だけだ。

揺は、ジャケットのポケットに残る、フロッピーディスクのわずかな感触を思い出す。あの薄っぺらな板きれが、誰かの心の支えになっている。それが善いことなのか、悪いことなのか、揺には判断できないし、興味もない。ただ、事実としてそこにあるだけだ。

空には、一番星が瞬き始めていた。

「北の福音、か」

揺は、誰にともなく呟いた。その言葉が、なぜか妙に胸に引っかかった。

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