第4章 part17 始まった4日目


 次の日の朝。


 クロウは相変わらず早朝に目が覚めた。昨晩遅くまで話し込んでいたはずなのに、いつも通りの時間に目覚めてしまうあたり、自分の性分なのだと諦め気味に起き上がる。


 身を起こし、静まり返った部屋の中で衣を手に取り、淡々と着替えを済ませた。そのまま洗面台の前へ立ち、自分の出立ちを確認する。


 鏡越しに映るのは、漆黒の髪を肩口で流し、冷えたような眼光でこちらを睨み返す少女の姿。


「……くそ」


 ぽつりと悪態が漏れる。


 睨むように鏡を見つめるその表情は、かつて自分が忌避していた“彼女”へと着実に近づいている気がしてならなかった。


 少し前まで動かしていた肉体とも決別し、性別まで変わってしまった今の自分。

 だが不思議なもので、この肉体には自然とそれに相応しい人格が備わってしまっており、日々口にする言葉も、態度も、まるで最初からそうであったかのように馴染んでいく。


「……私は、なんだ?」


 ぼやけた鏡の中、自分の姿が曖昧になる。

 肉体も魂も、全てを替えてしまった今、一体自分はどこから来て、どこへ行こうとしているのか。


 カゲハという男はどこへ消え、クロウという女はどこから現れたのか。


 涙が流れれば、ほんの少しは救われただろう。

 情があれば、少しは迷ったのかもしれない。

 けれど、日々を過ごすうちにそうした感情も、少しずつ、ゆっくりと薄くなっていくのがわかる。


 それでも――


「私は……忘れない」


 クロウの中には未だ、燻る怒りと後悔が残っていた。

 あのトリガーを引くときの人差し指の感覚だけが、今も自分が修羅から抜け出せずにいる証だと告げていた。


 故郷ユリウス連邦国で経験した、国家破滅の三日間。

 その悪夢と、神国に流れ着くきっかけとなった出来事。

 それは、いずれ語られるべきことだと、自分でもわかっている。


「クーロウ!」


 突然、脱衣所の扉をノックする音と、ユイの元気な声が現実へとクロウを引き戻した。


「あ、ごめんごめん。すぐ出るよ」


 慌てて物をまとめて扉の方へ向かうと、扉越しに声が続く。


「あ、違う違う。そっちは全然ゆっくりでいいんだ」


「ん? どうしたの?」


 クロウは扉越しに声をかける。


「もし良かったらさ、今日の午前中、授業ないし塔へ行かない?」


 塔――それはカムイの街で最も高くそびえ、頂上には四女王の石像が鎮座する、この街の象徴とも言える場所だ。


「いいよ。フェイも呼ぶ?」


 昨晩、食事の後にはそのまま寮へ戻った3人だったが、その後もずっと話しっぱなしだった。


 授業のこと、クロウの優秀さ、ユイの意外な才能の発揮。フェイからは貴族社会の裏話や、魂復魔法のコツなども聞くことができた。


「うん、もちろん!なんだか私たちって親友ぽいでしょ、塔で少し話したい!」


 いつも通り元気いっぱいなユイ。

 けれど、その言葉の端に、何か決意のようなものをクロウは感じ取った。


「オッケー」


 クロウは軽く返事をして、すぐにフェイに魔法通信を入れる。


『フェイ、朝からごめんね。今大丈夫かな?』


『はい!どうしました?』


 すぐに返ってきた声は、もう目が覚めているようで、声のトーンも明るい。


『ユイが、隣の塔へ一緒に行きたいって言ってるんだけど、来れるかな?』


『もちろんです!寮の入り口で集合しましょうか?』


『話が早くて助かる、そうしよう』


 通信を切ると、クロウはユイの方を振り返る。


「フェイも行けるって」


「やったー!朝ごはんも持って行こう!」


 嬉しそうに言いながら、ユイは自室の備え付け棚からいくつかの菓子パンを取り出した。


「そんなところに隠してたのか」


 クロウは呆れたように言うが、食べ物へのこだわりには少し感心もしていた。


「えへへ。私、だいたいお腹減っちゃうからね。これは日持ちするけど甘いタイプ。クロウのコーヒーと合うんじゃない?」


「ふふ、確かに。ありがとう」


 そう言ってクロウはユイから菓子パンを受け取り、ほんの少し口元を緩めた。


 そして2人は荷物を手にし、寮の玄関を出る。


 外は雲ひとつない快晴。


 登ったばかりの朝日が街を照らし、澄みきった空気が頬を心地よく撫でる。


「さて、行きますか!」


 ユイは両手を広げて空に向かい、元気いっぱいに叫んだ。


 その明るさに、クロウも自然と頷く。


 内に燻る迷いや重たい記憶は、今はひとまず心の奥へしまい、足取り軽く塔へと向かうのだった。





 塔へ向かう道のりは、決して困難なものではなかった。



 何しろ、ヴァルハラ魔術学院とその学院寮は隣り合わせに建っており、寮の姿こそ強力な不可視の結界術によって外部から視認することは叶わないものの、そのすぐ傍にそびえるように建つ巨大な塔だけは、カムイの街のどこからでもその姿を望むことができた。



 名を【カムイ塔】という。



 その名のとおり、この特別自治区の象徴であり、同時に魔法文明の粋を集めた魔力発信塔でもある。


 塔の内部には膨大な魔力を蓄積し、国全体に張り巡らされた魔導機械や転送装置、街灯、防護結界などへ魔力を供給し続けている、国家の心臓とも呼べる存在だ。


 そのため、当然ながら一般人はおろか、学園生徒であっても容易に立ち入ることは許されない。


「えーっと……」


 塔の目前に立ったユイが、曖昧に声を漏らしながら辺りを見回した。


「クロウさーん……」


 困ったように名前を呼ぶユイに、クロウは肩をすくめ、呆れたようにため息をついた。


「まさか……入れると思ってたの?」


 呆れ顔でそう問いかけながら、クロウは目の前の厳重に閉ざされた石造りの扉にそっと手のひらを当てる。


 扉にはいくつもの古びた術式文字が刻まれ、その上から最新の結界術による光のラインが走っている。見るからに突破は容易ではない。


「いや、その……。なんかさ、塔に登ったみたいな話、前に誰かから聞いたから……誰でも行けるのかと思って……」


 ユイは気まずそうに頬をかきながら、へへっと苦笑いを浮かべた。その表情を見たクロウは呆れを通り越し、半ば諦め顔で肩を落とす。


「そんな学校の屋上じゃないんだから」


 呆れ混じりの口調でそう言うと、クロウは手のひらに淡い紫色の魔力を集めた。


 すると、塔の扉に刻まれていた術式が一つずつ静かに光を放ち、霧散していく。


 結界を守る幾重もの魔法術式が、まるで粘土細工が崩れていくかのように粒子となって消えていった。


 それを見たフェイが、不安げに目を細め、ジトッとした視線をクロウに向けた。


「……えっと、これって、今すごく悪いことしてません?」


 フェイの冷静な問いかけに、クロウとユイは顔を見合わせ、いたずらっぽくニヤリと微笑む。


「そりゃあ、もうね」


 クロウがそう応じた瞬間、石造りの重厚な扉が鈍い音を響かせながら、ゆっくりと開かれていく。


 石が擦れる重苦しい音と共に、目の前にぽっかりと空いたのは、広大な空間だった。


 中は天井の見えないほど高く、円形状の巨大な吹き抜けになっていた。


 壁面には古びた石壁と、魔力を伝導するための術式のラインが複雑に絡み合うように描かれている。


「あれ? 階段は?」


 ユイが不思議そうに首をかしげ、塔の内部を覗き込む。


「この塔、300メートル以上あるんだよ? 階段なんかで登れるわけないでしょ」


 クロウは苦笑しながらそう言い、先にスタスタと塔の中へと歩を進める。


「ほら、おいで」


 手招きするクロウに、ユイとフェイも顔を見合わせながら後を追った。


 塔の内部に足を踏み入れた瞬間、床に描かれた古代文字と魔法陣が淡い青白い光を放ち始める。静かに輝き出した紋様は、3人の足元を包み込むようにして浮かび上がった。


「わぁ、転送魔法かぁ〜。やっぱりカムイは進んでるなぁ」


 感心したようにユイが声を上げる。

 それを横目に、クロウとフェイも足元の輝きに身を委ねた。


 次の瞬間、彼女たちの身体は柔らかな光に包まれ、空間が歪んでいく。


 ふわりと浮き上がるような感覚と共に、足元の光が急速に強まり、視界を白く染め上げた。



 ——そして。


 目の前に広がるのは、澄み渡る青空と、目の奥をツンと刺激するような朝の陽光だった。


 先ほどの転送魔術による光とは異なる、自然の太陽の温かみと強さを兼ね備えた光が、彼女たちの肌を包み込む。


「わぁ……!」


「すごいですね!」


 ユイとフェイが目を輝かせ、その場に立ち尽くした。


 柔らかな風が髪を揺らし、どこまでも澄んだ青い空に朝日が昇っていく。その景色は、まさに絵画のように美しかった。


 クロウは静かに目を細め、その風景を胸に焼き付けるように眺めた。


 それはまるで、嵐の前の、穏やかな静寂のようだった。

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