第4章 part9 始まりの3日目


「はっ!」


 突如として発せられた自分の声に、ユイは目を覚ました。


全身に汗をかき、息を少し荒げながら、重たい瞼を開ける。


見慣れない天井が視界に広がるが、それはすぐにヴァルハラの学生寮の自室だと思い出せた。だが、何よりも自分がきっちりと寝巻き姿で、ベッドの上で横になっていることに、ユイは違和感を覚えた。


 ――いつの間に……?


 記憶を辿ろうと頭を抱えたそのとき、背後から落ち着いた声が響く。


「おはよう」


 声の主はクロウだった。


ユイが起きる気配に気づいていたのか、自分の机に腰かけ、教本を片手にしながら湯気の立つコーヒーを口元へ運んでいる。


カップを傾けるその仕草も、ページを捲る指先も実に静かで、まるで朝の訪れを淡々と受け入れるかのような雰囲気だった。


「……私、昨日の記憶が全然ない」


 頭を押さえながら、ユイは呟いた。


こめかみ辺りを押さえ、昨日の出来事をなんとか思い出そうと必死になる。


「えっと……入学式があって、その後クロウとご飯食べて、クロウとビクトリアが戦って……学院長と話して……で、その後……どうしてたっけ、私……?」


 言いながら、ユイは眉をひそめた。


どうしても記憶が途中で途切れている。困惑するユイの様子に、クロウはクスリと笑い声を漏らした。


「え!? なに!? 私、なんかやらかした!?」


 その笑みの意味を問いただすように、ユイは身を乗り出す。なんだか胸騒ぎしかしない。


そういうときのクロウの笑い方だ、となんとなくわかってしまう自分が悲しかった。


「いや、別に大したことじゃないよ」


 クロウはコーヒーを置き、軽く手をひらひらと振る。



「え? そ、そうなの……?」


 ホッと胸を撫で下ろすユイ。


しかし、次の瞬間にクロウの口から放たれた言葉が、その安堵を粉々に打ち砕いた。


「昨日、学院長の話から戻ってきた後さ。ユイ、突然食堂のメニューを片っ端から頼んで、“全部食べ切った”だけだよ」


「……は?」


 時が止まったような気がした。


ユイは自分の体を見下ろす。

確かに、なんだか朝から体が重い気がしていた。重力がほんの少し強まっているような、だるさと違和感。それが満腹感によるものだと気づいた瞬間、血の気が引いた。


「さすがに止めたんだけどさ。ユイ、もう止まらなくて」


 クロウは肩をすくめ、笑いながら語る。その様子を見ているうちに、ユイの記憶もじわじわと蘇ってきた。


 朝から魔力を酷使し、目まぐるしい入学式、式後の魔法対決、学院長との会談、そしてクラス選択を勢いでやらかしたことで、異常な空腹に襲われていたことを。


「で、最後には全部食べ終わって気絶。そのまま寝てたよ。すごいね、若いってことかな?」


 そう言って、クロウは再び笑った。


「と……」


「ん?」


「止めてよーーーーーー!!」


 ユイの絶叫が寮の部屋に響き渡った。クロウは少し驚いた顔で、コーヒーカップを持つ手を止める。


「いや、止めたんだけどなぁ……」


「そんな生ぬるい止め方じゃダメ! あの魔法対決の時みたいに私を本気で止めて! ぶん殴ってでも気絶させてよ!」


 ベッドの上でジタバタと暴れるユイに、クロウは困り果てたように肩を竦める。


「それはさすがに、ねぇ……」


「それにさ! 『若い証拠かな?』って! 何そのお母さんみたいなコメント!」


 さらに布団をバサバサと蹴り上げ、ユイは暴れ続ける。


 クロウは一瞬呆気に取られたような顔をした後、ふっと微笑むと、手元の時計を指差した。


「ま、まあ……とりあえずなんだけど」


「う、うん……?」


「お風呂と着替えと今日の準備、しちゃおっか?」


 にこやかな口調だったが、その目だけが一瞬、魔法対決の時に感じたあの鋭い気配を宿していて、ユイはビクリと体を震わせた。


「イ、イエッサー!」


 重い体をどうにか奮い立たせ、ユイは慌てて身支度を始めた。腹の中に残る昨夜の過剰な食事の影響か、制服のウエストは僅かにきつく、ボタンを留めるたびに苦しげに息を吐いた。


 


「……ふぅ」


 学院の校舎へと向かう道すがら、ユイはふと大きくため息をついた。


「ん? どうしたの?」


 隣を歩くクロウが、視線を向ける。


「いやね、私、この学校に来てから結構やらかしてるなぁって」


「……あぁ」


 クロウは否定もせず、軽く相槌を打っただけだった。


「でもさ、思うんだけど、まだ知り合って3日目なのに、私だいたい先に寝ちゃってるよね。しかもクロウ、必ず私より早く起きてるし」


「まあね」


 ユイは今朝の出来事を思い出しながら、改めてクロウの生活スタイルに興味を持った。


「夜とか何してるの? ずっと勉強?」


 そう尋ねると、クロウは少し苦笑し、肩をすくめた。


「いや、私もそこまで真面目ってわけじゃないから。だいたい街を散策してる」


「ええ!? こんな女の子が1人で夜の街歩いてるの!?」


 ユイは素で驚いた。神国の統治下とはいえ、油断は禁物だ。


「まあ、そうだったね……でも別に、連れもいるし、街もそんなに治安悪いわけじゃないし」


 クロウは頬を掻きながら、あくまで軽い調子で答えた。


「いやいや、いくら何でも……って、連れ? クロウ1人じゃないの?」


「う、うん」


「それ言ってよ! 紹介してよー!……まあ私だいたい寝てるんだけど」


 ツッコミを入れつつ、ユイは昨夜までの出来事を思い出し、少しだけ恥ずかしくなる。


「で、どんな人なの? 男の人?」


 目を輝かせるユイに、クロウは少しだけ目を泳がせた。


「いや、何というか……姉みたいな、親戚みたいな人」


「なにそれ。てか女の人なんだ」


 少しだけがっかりしたものの、クロウの親戚のような人というのは俄然興味をそそる存在だった。


「他にもいるの? 一緒に来た人」


「ああ、いるよ。そっちは妹みたいな子」


「その“みたいな”っての何なの」


 クロウの独特な人物紹介に、ユイは思わず吹き出した。


「まあ気になるなら、今度会わせてあげるよ」


「ほんと!? やった!」


 無邪気に喜ぶユイ。その会話の最中、いつの間にか2人は教室の前までたどり着いていた。


「……まあ、今夜起きてたらね」


 クロウはそんなことを言いながら、笑みを浮かべて教室の扉を開けた。ユイは「絶対起きてる!」と心の中で拳を握るのだった。



扉を開けた瞬間、ユイの目の前に広がったのは、他の教室とはまるで趣の異なる空間だった。


円形に設計されたホール状の教室。その中央には、天井を突き破るほどにまっすぐと伸びる、太く力強い幹の大樹がそびえ立っていた。


天井の高窓から差し込む陽光が葉の隙間を通して教室内に降り注ぎ、木漏れ日のような柔らかな光が床をまだらに照らしている。その神聖さに、ユイは思わず息を呑んだ。


「……これが、噂に聞く“生命の樹”」


クロウが隣で呟いた。普段はどこか気怠げで飄々とした彼女が、今は目をわずかに輝かせ、その樹を見上げている。その横顔に、ユイはほんの少し驚いた。


「魔力の循環、排出、付与、徴収……古代の魔法の始祖の力すら、この樹のどこかに宿っているとされる宝樹だよ」


クロウは静かにそう説明すると、恥ずかしげに頬を掻いた。


「へぇ、クロウってこういうの、好きなんだ」


ユイはにひひと笑みを浮かべ、クロウの顔を覗き込む。クロウは恥ずかしそうに顔を背けた。


そのとき、教室の後方から響く威厳のこもった声が、二人を呼び止めた。


「小桜クロウ、津秋ユイ。早く席につきなさい」


声の主は、五大元素魔法クラス担当の【レイムス・コルニグス】教授だった。


白髪混じりの髪を後ろでまとめ、長身で引き締まった体躯。経験と知識に裏打ちされた揺るぎない自信を纏い、その眼差しには隙も曇りもない。響き渡るその声は、教室中のざわつきを一瞬で静めた。


「あ、やっぱり注目されちゃうよね……」


ユイは苦笑しながらクロウの背後に隠れるように立ち、ぺこりと頭を下げた。


「こんにちは、レイムス教授。前々から、貴女の授業には興味がありました」


クロウはにこやかに、それでいて妙な含みを持たせた調子で挨拶する。


レイムスはじっとクロウを見つめたのち、ふんと鼻を鳴らした。


「……センスは悪くない。あのダレントンの授業を選ぶ以外はね」


そう吐き捨てるように言い残し、レイムスは教壇へと向かっていった。


(うわ……この人もダレントン教授と仲悪いんだ)


ユイは昨日、カオリとダレントン教授が言い争っていた場面を思い出し、教授同士の間に根深い確執があることを確信する。


「ユイ、こっち。後ろのほうに座ろう」


クロウがユイの腕を軽く引き、教室の後方、全体を見渡せる位置へと歩き出す。その周囲では、他の生徒たちがちらちらと彼女たちを見ていた。


やがて、レイムスが拡声魔法を施した声で場を静めた。


「皆さん、初めまして。私はこの五大元素魔法クラスを担当するレイムス・コルニグスです。今回、この授業を選択したことに感謝します」


レイムスの表情は穏やかだったが、その声には揺るがぬ威厳が込められていた。生徒たちも一斉に姿勢を正す。


「しかしながら、この偉大な授業を最初に選択しながら、途中で他クラスへ移った者もおります」


その瞬間、教壇上のレイムスの顔に険しい影が差した。声の調子も低くなる。


「このクラスを選択したことを、皆様には決して後悔させません。むしろ、他のクラスの選択者にこそ後悔させてやりましょう!」


声の最後はほとんど怒号に近かった。レイムスの瞳には炎のような気迫が宿り、生徒たちは誰もがごくりと息を飲み、互いに顔を見合わせる。


(こわ……)


その場にいた全員が、内心で同じ感想を抱いていた。


だがレイムスはお構いなしに、続ける。


「さて。早速ですが、皆様にやってもらいたいことがあります」


言うが早いか、レイムスは中央にそびえる生命の樹へ歩み寄り、太い幹にそっと掌を当てる。そして軽く息を吐き、魔力を流し込むと、教室の空気がわずかに震えた。


「わっ……!」


ユイは思わず声を上げる。机の上に、どこからともなく五つの小瓶が現れ、静かに並んだ。その中にはそれぞれ、【火のついた蝋燭】【水面に浮かぶ氷片】【風に揺れて回る小さな花びら】【蠢く泥の塊】【淡く光る小型の魔導機械の玉】が収められていた。


教室内がざわめく。誰もが興味と不安の入り混じった目で、目の前の小瓶を見つめている。


「これが、皆さんの“自己紹介”とも呼べるものです。残念ながら、私は皆さんの名前や趣味を伺う暇はありません」


レイムスの声が教室中に響いた。生徒たちは息を呑み、張り詰めた空気が満ちる。


「これらに対し、各自の魔力を適切に流し込み、活性化させなさい。成功すれば小瓶が反応し、眩い光とともに五大元素の魔法術式が現れます」


淡々と語るレイムスの説明に、誰もが緊張の面持ちを浮かべた。


そのとき、教室の一角でそっと手が上がった。


「……はい!東大陸ジュシュンから来ました──」


「名乗りはいい。要件を言いなさい」


レイムスはその言葉を鋭く遮った。教室内の空気がさらに張り詰める。


「あ……はいっ。これって……魔法学校で行われる“魔力測定”の一種ですよね?全てに流し込むと、自分の属性が判るって」


生徒は恐る恐る問いかけた。レイムスはわずかに口元を歪める。


「確かに、通常の測定器には近いものがあるな。しかし、今君たちの手元にあるそれには何の制限もない。好きなだけ魔力を注ぎ込みなさい」


質問者はさらに戸惑いを浮かべ、声を震わせながら続けた。


「で、でも……自分の属性以外の器に魔力を流しても、反応しないのでは……?」


その瞬間、レイムスの瞳が鋭く光る。


「ほう。できないと?」


教室中の空気が凍り付いた。質問者は青ざめ、想像してしまったであろうその後の展開を察して、慌てて首を振る。


「い、いえっ!なんでもありません!」


そして小さくなって席に戻る。


「よろしい」


レイムスは満足げに微笑み、しかしその目の奥には鋭い光を宿して生徒たちを射抜くように見渡した。


「まあ、急に言われて驚くとは二流だとは思いますが、その度胸にはヒントをあげましょう」


その言葉を聞いた瞬間、教室中の生徒たちの心の中に湧き上がった感情は一致していた。


(グッッッッジョブ、東大陸の名も無い人!)


心の中で拳を握り、拍手を送りたい気持ちを堪えながら、皆はその場の空気を壊さぬよう静かに息を呑んだ。


レイムスは再び小さく溜息を吐きながらも、再び教室中央に聳え立つ“生命の樹”へと歩み寄る。そして、そのごつごつとした幹に手のひらを当てた。途端に、教室の空気が微かに震えたように感じられる。


彼の魔力が樹を通じ、再び机の上に展開された五つの小瓶の側に、新たに直接その“元”となる五大元素が現れた。


火の揺らめく炎、

水の上に静かに浮かぶ氷、

宙に舞い回る薄紅色の花弁、

ずるりとうごめく泥、

そして淡く稲妻を走らせる小さな魔導機械の玉


──それは今まで瓶の中に閉じ込められていた存在とは異なり、むき出しの“元素そのもの”だった。


「これは五大元素そのものです」


レイムスはそう宣言し、教室の隅々まで響き渡る声で続けた。


「魔力を流しても何も起きませんので、触れても問題はありません。だが、理解するには触れて感じる事が重要となります」


そう言いながら、レイムスは教室中央に浮かぶそれぞれの元素の元へと手を伸ばした。


まず、炎のついた蝋燭の小さな揺らめく火に指先を近づける。淡い橙の光が彼の顔を照らし、指先に熱が伝わるとレイムスは静かに呟いた。


「炎は熱、そして熱とは“秘めた感情”だ」


その声には確かな響きがあり、教室中の生徒たちは思わず息を呑む。


次に、宙に浮かぶ水の球体と、その中に漂う小さな氷の欠片をすくい取るようにして手のひらに乗せた。冷たさがレイムスの指先に沁み込む。


「水、氷は“静寂”、その先の“停止”。すべての流れを断ち、沈黙の中にこそ真の力が潜む」


生徒たちはその手の中で静かに揺れる水と氷を見つめ、その透明さと静かな存在感に魅入られていた。


続いてレイムスは、ふわりと宙に舞い回る一枚の薄紅色の花弁を指先で摘み取る。彼がひとつ息を吹きかけると、花弁はくるりと螺旋を描きながら宙を舞った。


「風は反芻。大気と星の“鼓動”。目に見えぬそれを感じ取る力こそが風の本質」


彼の声に合わせて、教室内に微かな風が生まれたような錯覚を生徒たちは覚えた。


そして、次に手を差し出したのはずるりとうごめく泥だった。黒褐色の泥は生き物のようにレイムスの手の中で蠢き、かすかに小さな泡を弾けさせる。


「地面は“星”であり、生命の胎動。大地は沈黙しているようでいて、常に蠢き、孕み、命を育んでいる」


最後に、レイムスは淡い稲妻を纏った小さな魔導機械の玉に手を伸ばした。触れる直前、指先にはバチリと小さな閃光が走る。


「雷は“現象”そのもの。剥き出しの感情、何の抑制もない力の奔流だ」


手の中で玉は微かに唸り、再びパチリと火花を散らした。


そして、その全ての元素の元を掌から宙に放つと、レイムスの周囲に五つの元素がそれぞれの輝きを放ちながら、ゆっくりと彼の周囲を巡り始めた。


まるで惑星のように静かに、しかし確かな存在感を放ち、教室内の空気を震わせる。


「これらを理解すること。それがこの魔法の真髄だ」


レイムスの声が静かに教室中に響くと、彼の周囲には五色の魔法術式が浮かび上がった。それぞれの元素の色を宿した術式は、美しい螺旋を描きながら、鮮やかに輝いている。まるで虹のように教室を照らし、生徒たちの瞳にその光景が焼き付いた。


「綺麗……」


思わずユイが小さな声を漏らし、クロウもわずかに目を細めてその光景を見つめた。ユイの表情は完全に魅了され、今にも立ち上がって自分もそれを真似したいとウズウズしているのが隣からでも分かる。


レイムスは微笑みながらも、淡々と続けた。


「ここまでとは言いません。しかし、まずは貴方達にはこの五大元素を扱える様になるのが、この一年目の課題です」


教室中の生徒たちは息を呑み、その言葉を胸に刻み込むように静かに頷いた。新たに始まる学びの重みと、その先に広がる未知の可能性に、誰もが胸を高鳴らせていた。

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