第3章 part9 次元からの帰還者
《ダンジョングランド 中心部》
魔導ヘリはなおも上空で待機を続けていた。それは、まるで世界の終焉の訪れを静かに見届けるのか、あるいは未だ戻らぬ主の帰還を信じ、忠義を貫く兵士のようでもあった。
「……あの魔力反応が……消えた?」
ミランダは、今まで張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れたかのように、呆然とした声を漏らした。
と、そのとき。
「み、見てみろ!みんな!」
フリントが歓喜に満ちた声を上げる。その視線の先、あの忌まわしき聖堂を覆っていた終末の繭が、徐々に砂の粒子となり崩れ去っていく。
やがて姿を現したのは、既にセルヒオの激戦により半壊した聖堂の姿だった。
だが、次の瞬間──。
聖堂の地下から突如として強力な魔力反応が発生する。
その異様な気配に、場の空気は一瞬で張り詰め、鴉部隊の面々は再び絶望の淵に立たされた。
「こ、こんな……まさか奴が……!」
逃げ場のない状況に、誰もが狼狽え、いよいよ脱出か、あるいは再び戦うのか、その瀬戸際で目を泳がせる。
聖堂の下から発せられる魔力のパターンは、あの次元を穿つ術式と酷似していた。
そして、地鳴り。
「な……何が起こってるの……?」
ミランダは声を震わせ、呆然と周囲を見渡す。
すると、崩壊の進む聖堂の壁に大きな亀裂が走り、天井が音を立てて崩れ落ち始めた。
始まりの聖堂。
幾千もの命を犠牲に捧げてきた、この地の象徴とも呼べる忌み地が、今まさに完全に破壊されようとしていた。
「……あれは!」
瓦礫に腰を下ろしていたセルヒオが突如として駆け出す。
まるで獲物に狙いを定めた獣のように、尋常ならざる速度で一直線に聖堂の中へと走り込む。
「……副隊長、どうしたんですか?」
フリントが怪訝そうにセルヒオの後ろ姿を見送る。
だが、ミランダの表情は次第に希望の色を取り戻していく。
「まさか……」
その視線の先には、崩壊する聖堂の奥から、瓦礫をものともせず現れる一人の男の姿があった。
天井から落ちてくる巨大な瓦礫も、彼には無力だった。触れた瞬間、砕け散り、塵と化す。
そして、その逞しい腕の中には、意識を失った黒髪の女性の姿。
聖堂は容赦なく崩れ落ち、その二人をも飲み込まんと迫る。だが、男はわずかに足を踏みしめ、地を叩くように強く踏み込んだ。
「……鬱陶しい」
その一言とともに、衝撃波が周囲へと広がり、襲い来る瓦礫の群れを一瞬で吹き飛ばしてしまう。
その衝撃に揺らされ、男に抱きかかえられていた女がわずかに瞼を開いた。
「……う、うう……セルヒオ……?」
混濁した意識の中で、女はかろうじて男の名を呟いた。
セルヒオは、心から安堵したように微笑んだ。それは普段の荒々しい彼からは想像もつかないほど優しく、穏やかな笑顔だった。
「おかえり、カゲハ隊長」
その声を聞き、女──カゲハは再び瞼を閉じる。おそらくは、今この瞬間、自身にとって最も安全な腕の中にいるのだと、本能的に理解したのだろう。
そこへ、上空から魔導ヘリが着陸する。扉が開くと同時に、ミランダとフリントが血相を変えて駆け出してきた。
「隊長ーっ!!」
2人はセルヒオのもとへと駆け寄る。だが、その腕に抱かれていた黒髪の女性の姿を見て、2人同時に叫び声を上げる。
「「誰!?」」
「隊長だ」
セルヒオはきっぱりと言い放つ。
「「違うだろ!!」」
声を揃えてツッコミを入れるミランダとフリント。
背格好も、雰囲気も、ましてや性別すら違う存在を、セルヒオは“カゲハ隊長”だと断言して譲らないのだった。
そしてセルヒオが「カゲハだ」と言い張る異形の女を含めた四人は、激しい戦闘の余韻と硝煙の匂いを纏ったまま、魔導ヘリへと帰還していた。
それは重々しい沈黙が機内を満たす。
見送りの隊員たちは、帰ってくるべきカゲハの姿を求め目を凝らし、降り立った人物を認めると、誰もが息を呑んだ。
そこにいたのは、彼女ではない。見知らぬ異様な美貌の女――異質な空気を纏ったその存在に、機内は静かなどよめきに包まれた。
「……どういうことだ……?」
誰ともなく呟いた声が、緊迫した空気をさらに冷たくする。
「カゲハ隊長は……一体どこに……?」
戸惑いと不安の色を浮かべた隊員たちは、ヘリの外、既に崩壊し瓦礫の山と化した聖堂跡を見やった。
しかし、そこには何の手がかりもない。ただただ灰燼に帰した石材と崩れた柱の残骸のみが、惨劇の痕跡を静かに語っていた。
「とにかく、私に診せてもらえるかしら」
そう声をかけたのは、鴉部隊と行動を共にしていた魂復士の長、大四季 真里だった。
彼女はすぐさま異形の女のもとへと歩み寄り、昏睡し意識の戻らぬその肉体にそっと手を翳す。
「……まずは目を覚ましてもらわないと、事情を聞くこともできないわね」
真里の声は静かだが、その奥底に帰還者が待つべきカゲハの存在ではなかった事が、その重い現実を前にした。
どうしようもない焦燥と悲しみが滲んでいた。その様子を見守るミランダの表情も、再び暗い翳りを帯びる。
「だが、“奴ら”の仲間だったとしたら?このまま放置して暴れられでもしたら手に負えん。拘束すべきだ」
フリントは警戒心を隠さず、眉を寄せ鋭く言い放つ。戦場で幾度となく死地を潜り抜けてきた彼の経験が、安易な楽観を許さなかったのだ。
「その必要はないわ」
額にうっすらと冷や汗を滲ませながらも、安定した術式を行使し続ける大四季 真里が答えた。彼女の声には確信があった。
「彼女、魂が――もうこれ以上にないほど、ボロボロよ。見て、この手……」
異形の女の手のひらはヒビ割れ、触れれば崩れ落ちる砂のように、サラサラと細かな粒子となって零れ落ちていた。それは魂が崩壊する際に現れる現象であり、もはや原型を保っていること自体が奇跡だった。
「これほどの魂の損耗……肉体がまだ形を留めているのが信じられない。この次元で、これほどの消耗をもたらす魔法など、私の知る限り存在しないわ」
かろうじてこの場に留まっている肉体も、彼女の施術と魂復術の妙技によって、なんとか崩壊を免れている状態だった。
そのとき、通信機からレイの声が響いた。どこか鼻声混じりの、まだ気持ちの整理がつかない様子の声だった。
『送ってもらった生体データ、照合してみたよ。結論から言うと……該当なし。彼女の肉体情報は、どのデータベースにも存在しなかった』
その言葉に、ヘリ内の誰もが息を呑む。
『それどころか、この世界のどの遺伝子配列にも属さない。この女は……この世界の住人じゃないよ』
静まり返る機内。カゲハ不在という大問題に加え、異世界の存在まで持ち込まれた事態に、隊員たちは頭を抱える。
『で、セルヒオ副隊長。あなたの見解では、この異形の女がカゲハ隊長だと?』
レイの声には、怒気と苛立ちが滲んでいた。だが、セルヒオはいつもの調子で軽く肩を竦めて答える。
「ああ。間違いない。これは、カゲハだ」
(……あ、レイがキレる)
その場にいた全員が同時にそう思った。
『だからッ!!!遺伝子も、肉体情報も、全部違うって言ってんだろうがぁああああ!!!魂情報も真里さんが確認して、違うって言ってただろおおお!!!』
耳鳴りがヘリ内を満たした。レイの怒声がヘッドセット越しに響き渡り、大四季 真里は耳を押さえながら、なおも術式を継続する。
(まだ魂復中なんだけどなぁ……)
その時だった。
「……!」
真里は術式の手を止め、異変に気付く。
横たわっていた女が、まるで夢から醒めたかのように、こちらをじっと見つめていたのだ。その目は、確かに生きていた。
「これだけの損傷……死よりも酷い状態なのに……」
「……いや、もう大丈夫。貴女のおかげで助かったよ」
女は緩慢な動きで上半身を起こし、真里に向かって微笑み、礼を述べた。
その光景に、機内の全員が息を飲んだ。まるであり得ないものを目の当たりにしたかのように。
鳥型アーマー“ハシボソ”さえも、そのカメラアイをジリジリと彼女に向けて動かす。
そして女は眉を寄せ、その様子を睨みつけると、静かに口を開いた。
「……お前ら。対象を保護してるのに、なぜ帰投しない。任務の最優先事項、忘れたのか」
その一言で、機内の空気が凍りついた。
「!!!!!!」
全員の胸が張り裂けそうになった。確かに、その口調も、あのカゲハのそれだった。
「はぁ……減給だな。それで反省しろ」
女は深く溜息を吐き、心底呆れた顔で隊員たちを見渡す。
誰もが言葉を失った。
「……。」
「……。」
「……。」
「ん? なにお前ら、なんで泣いてんの……?」
女は眉をひそめ、困惑したように呟いた。その言葉に堰を切ったように、ミランダが叫んだ。
「た……たいぢょーーーーーーーー!」
彼女は女に飛びつき、全力で抱きしめる。
「痛いっ!ほんとに痛い、ミランダっ!」
女の呻き声を聞き、慌てて大四季 真里が引き剥がし、人命救助を遂行するのだった。
「な、言ったろ。この人はカゲハ隊長だって」
セルヒオがいつもの軽口を叩くと、全員が心の中でこう叫んだ。
(理由を教えろよ!!)
再び、大四季 真里は静かにカゲハのもとへ歩み寄り、その肉体と魂の状態を丹念に確認した。
その体と魂は、先ほどまでの過酷な戦闘や異形の力に侵された痕跡をわずかに残してはいたが、彼女の肉体はまるで奇跡のように急速な回復を見せていた。
崩壊寸前の肌は、見る間に元の滑らかさを取り戻し、魂の器も揺らぎなく安定を取り戻していく。
その回復の速さに、大四季 真里は内心で安堵と驚嘆を隠しきれなかった。
目を覚ましてからわずか十分ほど。
カゲハの肉体と魂は完全に、何の問題もなく戦闘前の状態へと戻っていた。
その回復力は常人はおろか、どんな屈強な戦士をも凌ぐ物であり、大四季 真里はそっと胸に手を当て、この不思議な隊長の存在の異質さを改めて認識する。
そのとき、不意に通信機の奥から、耳を劈くような泣き声が響いた。
『なんでそんな女の子になっちゃったのおおおおカゲハああああ!』
声の主は、レイだった。回線の向こうで涙を堪えきれず号泣する声が、ヘリの狭い機内にまで響き渡る。
にもかかわらず、ヘリはしっかりと高速移動モードへと切り替えられ、隊員たちも一切の動揺を見せることなく、救出対象と共に神国への帰還の空路を飛び続けていた。
女王関連の事柄が絡んでいる以上、その理由を問うことは誰にもできない。
それが、この国の、この部隊の不文律だった。
カゲハもまた何も語らず、隊員たちも“なぜ女性の姿となったのか”を追求しなかった。
ただ、その背後に何か決して触れてはならない理由があるのだと、誰もが察している。
今はしばしの移動時間、暗躍する隊員達の束の間の休息でもあった。
そして機内に吹く風が、長く艶やかな漆黒の髪を揺らす。
カゲハは静かに席を立つと、優雅な身のこなしで大四季 真里の隣へと歩み寄った。
「隣、座っても?」
その問いかけに、大四季 真里は柔らかな微笑みを浮かべ、静かに頷いた。
「ええ、もちろん。いいのよ、女同士なんだから、そんなに紳士ぶらなくて」
その優しい言葉に、カゲハは思わず苦笑し、引き攣った笑顔を浮かべる。
「……今回、貴女を救うために、正直言って大変な目に遭った」
その言葉に、大四季 真里はわずかに表情を曇らせ、俯きがちに目を伏せた。
「それは……本当に申し訳なかったわ」
沈む声で呟いた彼女に対し、カゲハは肩を竦める。
「理由は聞かない。あの場にいたのは、きっと貴女なりの覚悟と理由があったんだろう。それを責めるつもりもない。まぁ……事故みたいなもんさ」
それに応じるように、大四季 真里は少しだけ唇を歪め、皮肉めいた微笑みを浮かべた。
「ふふふ。実際、飛行機事故だったわけですもの」
ふたりはわずかな静寂ののち、ふっと小さく笑い合う。
「ただ、それでも俺が強く感じたのは。あの場で皆の動揺を納め、迅速に処理を行う腕前――貴女ほどの人材は他にいないと、そう確信した」
「……あら」
驚いたように目を見開く大四季 真里。その瞳には、かすかな誇らしさと、嬉しさが滲んでいた。
「魂復士としての立場もあるだろうし、色々わかってはいる。でも、もしも叶うなら……鴉部隊に、貴女を招きたい」
その誘いに、大四季 真里はほんの一瞬驚きを滲ませたが、すぐに穏やかな微笑みを浮かべ、首を横に振る。
「ふふふ……それは、きっと人女王が許しませんわ」
「……まぁ、だよな」
最初から断られることを承知の上での勧誘。それでも、カゲハにとっては口にせずにはいられない想いだった。
「でも、まぁ」
「ん?」
大四季 真里はふんわりと笑みを浮かべた。
「あなた方の任務の後、必要なら部隊に魂復士を派遣するよう手配しておきます。私は流石に無理だけど……私の自慢の弟子なら、きっとあなた方の役に立つと思いますよ」
「!……さすがだな、人女王の最側近。優しすぎて、もう何も言えないな」
カゲハもようやく表情を緩め、その人柄に心からの信頼と敬意を寄せる。
そんな和やかな空気の中、機内の奥から重い足音を響かせて現れたのは、ミランダだった。
「ターイチョ!」
「……ミランダ」
その顔に浮かぶ、なにやら含みを持った笑みが、カゲハに嫌な予感をもたらす。
「私、言いましたよね。“連れて行きたい店がある”って」
ミランダの鼻息が荒い。
「ああ。そうかも……」
「いやー、ほんとは美味しいスイーツをご馳走してもらおうと思ったんですが!」
ミランダの顔がカゲハの顔にぐいと近づき、じろじろとカゲハの全身を舐めるように視線を走らせる。
「ふむ……これはいかんでしょ、隊長」
「いや、何が」
「何がってわからないんですか!?なんすかその服!」
怒りをあらわにしながら、ミランダはボロボロになった黒衣を指差す。
「い、いやこれは黒衣とクインズアームズで……」
「ちがーーーう!」
ミランダの怒声が響くと、他の隊員たちも「なんだなんだ」と集まってきた。
「なんでドレス!?」
「いや、なんか狂女王がそんなドレス着てたなぁって」
ガン!
ミランダが魔導ヘリの床を拳で殴りつけた。ヘリがわずかに揺れ、その怒りの大きさを窺わせる。
「ちくしょう……あの女、この人に悪影響しか及ぼさねぇ……!」
続けて跪き、両拳で床をガンガンと叩き続ける。
『ソコノゴリラ女、ヤメテクダサーイ、コワレマース』
アラーム音とともに、レイの通信が割り込んできた。
「とにかく!ミス・カゲハ、明日私と服の買い物です」
「いや、明日はちょっと……」
ミランダの眉間に深い皺が寄る。
「隊長、どうせ女物の服なんて持ってないでしょ」
「いや、女性隊員の支給品とか……」
「それ軍服でしょうが〜!下着どうすんだよ〜!?」
カゲハは視線を逸らし、恥ずかしそうに小声で答えた。
「いや、まぁ、それは別に……」
バン!
次の瞬間、ミランダはカゲハを壁際へ追い詰め、両手を彼女の顔の左右へと叩きつけた。いわゆる壁ドンの形だ。
「その綺麗で美しい顔で、男物の下着を履くつもりじゃないでしょうねぇ……」
ミランダの目は据わり、その表情は鬼気迫るものだった。
「……いや、まぁ……」
ミランダの顔がさらに近づいてくる。何か言いたそうな、そんな顔だった。
カゲハはそれに押し負け、ボソッと言った。
「……後でなんか貸してください」
その顔は今度は穏やかに微笑んでいた。
「え?なんか恥ずかしいなぁ〜、でも仕方ないなぁ〜、もお〜」
(怖っ、誘導尋問じゃん)
他の隊員たちは内心そう思わずにはいられなかった。
そのとき、一人の隊員が呟いた。
「隊長、すごく美しいし、服の一つでも選んでもらったらいいんじゃないですかね」
フリントだった。
「……。」
その瞬間、ヘリの機内の空気が一気に氷点下まで冷え込んだ。もちろん魔法でも空調でもない。
「……え、キモいな」
そう口にしたのは、他ならぬカゲハだった。
その後の帰路、誰一人とも口を開かず、ヘリは無情にも神国への空を飛び続けた。
やがて、神国のヘリポートへと降り立った際、そこには狂女王を除く、四人の女王たちが静かに出迎えていた。
カゲハは何も言わず、そのまま彼女たちについていったのであった。
鴉部隊 ユーガ国ミッション編
完
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