第3章 part7 女王の顕現
——深い闇の中で、カゲハはふと意識を取り戻した。
「……ここは……」
視界は闇に包まれ、辺りはまるで底のない夜の海のように、どこまでも沈み込む漆黒に支配されている。
だが不思議なことに、自分の輪郭だけは確かに認識できた。手を動かせば手が動き、足元も地面の感触こそないが確かに存在しているとわかる。
しかし、この場に自分が在ること、それ自体が“異物”なのだと直感した。
直感ではない。もっと根源的な、存在の奥底から響いてくる確信があった。ここはこの世のものではない。この世界の常識も理も、通用するはずがない場所だ。
そうだ——ここは飢餓神レ=イリスの棲み処。過去に喰らいつくし、滅びた世界の亡骸が漂う異界。
名残すらも朽ち果て、ただ絶望と飢餓だけが淀んで渦巻く、虚無の空間。
「やっと目を覚ましたか」
不意に、背後から声が響いた。
「……!」
反射的に振り返る。その刹那、カゲハは戦慄した。
そこに立っていたのは、紛れもない自分自身の姿だった。だが、その顔には醜悪な嗜虐の笑みが浮かび、その瞳には血のように赤い光が宿っていた。
「……俺の、姿……」
「ああ、そうだ」
偽物はゆっくりと口角を釣り上げ、薄気味悪く笑う。その表情は、まるで人の皮を被った悪鬼のようだった。
カゲハは咄嗟に身構えようとした。が、そこで気付く。力が入らない。まるで己の存在が、肉体という枷からも魂という核からも切り離されたかのように。さらに、内に宿るはずの魔力の気配すら、微塵も感じられなかった。
「無駄だ」
偽カゲハが掌をかざせば、そこからジジジという音と共に淡い紫の魔力の火花が弾けた。
「お前は今、魂と肉体を切り離され、空の存在と化した。肉体を持たず、魂も剥がれ、ただ残滓としてここに漂うだけの、哀れな亡霊だ」
「……つまり……お前が……レ=イリスか」
カゲハの問いに、偽カゲハ——いや、飢餓神レ=イリスは邪悪に笑みを深めた。
「その通り。この状況は我にとって想定外であり、同時に最大の幸運でもあった」
その瞬間、空間が重苦しく震え上がる。レ=イリスが解き放ったのは、世界そのものを歪ませるほどの魔力。地の底から吹き上がる業火のように、空間そのものが悲鳴を上げる。
「ははは……この肉体、魂、そして内包する魔力量。かつての器より遥かに上等だ」
レ=イリスは歓喜に酔いしれ、掌から滲み出す魔力を弄ぶように宙を舞わせる。その場に立つカゲハは、もはや五感も感覚も希薄になり、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
「……なぜ、俺はまだ意識があるんだ」
「さあな。すべてを奪い尽くされた者に、意識など残るはずがない。だが、そんな事は些細な問題だ。せいぜいこの次元喰いの傍観者となるがいい」
レ=イリスは周囲に無数の蟲を纏わせ、その白い鎧のような蟲殻を身にまといながら、薄気味悪い嗤い声を響かせる。
「前の奴はな、千年前の“賢者”と呼ばれた男だった。魔力の器としては上等だったが、所詮はその程度。だが、お前は違う。莫大な魔力を内包しながら、それを戦闘の補助や探知にしか使わないとは。魔術式の展開が苦手なのか?」
小馬鹿にするような口調で、レ=イリスは肩をすくめる。だが、カゲハは鼻で笑い返した。
「……そんな俺に負けたお前も大概だがな」
レ=イリスの顔に怒りの色が浮かぶ。
「貴様……身の程を弁えろ。あれを倒したと勘違いしているようだが、あれは無数の我らの一体に過ぎぬ。この宇宙の百以上の世界は、もはや我らの無限の軍勢に飲まれて久しい。お前如きに抗える道理などないと知れ」
「……あの世界では無理だろうな」
「……ああ、“女王”? ただ魔力が高いだけの存在など、過去幾万と見てきた」
レ=イリスの嘲笑に、カゲハはふっと視線を逸らす。偽カゲハの姿は、その髪色こそ異なるものの、どこかかつて見た人物に似ていると微かに感じた。
そして次の瞬間、レ=イリスの手がカゲハを指し示す。
「もはや貴様など不要。いい加減目障りだ、消えろ」
指先から放たれる魔力の奔流。その一瞬、カゲハの指先から、塵のように崩れ始める。
「安心しろ。もはや貴様も“我ら”の一部だ」
そして響き渡る不快な高笑い。
その光景に、カゲハはただ不愉快そうに眉をひそめた。
——おい。
「……おい」
消えたはずの意識の中に、低く、しかし妙に耳に馴染んだ声が響く。
それは、今のカゲハにとって最も聞きたくない声だった。
「これは……なんだ?」
「魂ごと消え去ったのではなかったのか?」
どこまでも白く、どこまでも静寂な、まるで深層意識そのものと言いたくなる空間に、カゲハの意識は浮かんでいた。
声の主は、その無垢な空間に不釣り合いなほど鮮烈だった。
漆黒の髪。虚ろな黒い瞳。闇よりも濃い漆黒のドレスを纏った女――狂女王。
「消える? お前が? そんなことできるわけがないだろう、お前は“カゲハ”なんだから」
女王はまるで呆れたように、口元を釣り上げ、ケラケラと笑った。
「だが……俺は肉体も魂も奪われた」
「はっ、人は脳がなければ考えられず、魂がなければ感じ取れないと思ってるのか?」
狂女王は肩をすくめ、愉快そうに鼻を鳴らした。
「“私たち”は存在そのものが根源だ。肉体も魂も、そんなものは飾りだよ」
「なら……何しに来た」
カゲハは呆れ混じりに呟く。この女の話はいつも要領を得ない。死んでなお説教でもしに来たのだろうか。
「そう、“我が子”に説教しに来たんだ」
「……死んだ後もか」
「ははっ、当たり前だろ母親だぞ」
狂女王は肩を竦め、薄く微笑む。
だがその双眸は、まるで母親が我が子を叱る時のように真剣だった。
「お前、女王の魔力を使ってないだろ。それに、鴉の一機でもいたなら、戦況は随分違った」
「……使う必要がなかった。勝てると判断した」
狂女王は頭を抱えた。その様はまるで我が子の反抗期に悩める母親の様。
カゲハは心の中で呟く。
これは夢だ、自分の失態をなじる存在が、嫌いなこの女の姿になって現れているだけだ、と。
「カゲハ」
狂女王の双眸は、カゲハをまるで憐れむ様にその瞼を伏せていた。
「まさか、この事態も“神国ならどうにかなる”と考えてるんじゃないだろうな?」
「……事実、そうだろう」
その言葉に、狂女王の顔が曇った。
「……正直、無理だ」
「……は?」
意表を突かれた。神国の女王たち――いや、神女王でさえ、解決できない事態など存在しない。カゲハはそう信じていた。
「正面から迎え撃てば、確かに善戦はできる。けれどそれも最初だけだ。奴ら《神達》が顕現すれば最後、無限に増殖する軍勢に、我らは勝てない」
その言葉に、カゲハの胸が冷えた。
確かに、一体一体は脅威ではない。だが、それが無限なら――それは“脅威”そのものだった。
「……わかってるだろう、カゲハ」
「……。」
「やるしかないんだ」
狂女王は、まるで母のように穏やかな微笑みを浮かべる。
この女がこんな顔をするのを、カゲハは知らない。
「くくっ……やっぱりこれは夢だな。結局、俺は自分の結論に嘘はつけない」
カゲハは自嘲気味に笑った。
「そうさ、お前は負けることなんて許されない。私の、子なんだから」
カゲハは鼻で笑う。
「貴女に産んでもらった覚えはないが、まあ……今だけは、そういうことにしてやるよ」
そして、カゲハは己の“存在”に宿る女王の力を解放する。
飢餓神レ=イリスは、ついにその瞬間を迎えようとしていた。
カゲハの魂と肉体を掌中に収め、莫大な魔力と血に宿る“女王との盟約”という呪縛をも手に入れた今、侵略と顕現の準備は整った。
レ=イリスの中には確信があった。この力をもってすれば、世界の侵食など瞬く間に完遂できると。
本来ならば、女王候補と目されし《大四季真里》の魂を贄とし、その身を顕現させるはずだった。だが、それすらも霞むほどの強大な力を得たことで、レ=イリスの内に歓喜が広がる。
──だが、それはほんの刹那のことだった。
ギギギギギ……
次元の狭間に広がる闇が、まるで金属の歯車が軋むかのような、不快な音を響かせた。
空間が歪み、悲鳴を上げる。
「……なんだ?」
予想だにしなかった異変に、レ=イリスの赤い双眸が細められる。
辺りを埋め尽くしていた蟲たちも、一斉に何かに怯えたようにざわめき始めた。
その光景を見やる間にも、漂っていた魔力粒子と、虚空から湧き上がる光の粒子が、一点へと収束していく。
やがてそれは、ぼんやりと人のようなシルエットを形作り始めた。
「まさか……!」
その姿はやがて、眩い光に包まれ、“顕現”する。
漆黒の長い髪。しなやかな肢体を覆う黒衣。その瞳は闇よりもなお深く、底知れぬ虚無を湛えていた。
その女は、空中から飢餓神レ=イリスを冷ややかに見据える。
「……誰だ、貴様は」
レ=イリスの声が怒気を孕む。だが、女はふっと微笑み、呟くように言葉を紡いだ。
「なぜ魔力を解放しなかったか……教えてやろうか」
「……!?」
声は確かに女性のもの。しかし、その口調には聞き覚えがあった。
「女王の魔力因子に適合した者は、徐々に“女王”という存在に変わっていく。魂も、性別すらも関係ない。女王とはそういう存在だ」
「貴様……カゲハか!」
レ=イリスの双眸が驚愕と怒りに染まる。だが、カゲハは愉しげに唇を吊り上げた。
「初めて名前を呼んでくれたじゃないか。だが、体も魂も奪い、その記憶さえ手にしたお前が、その事実を知らなかったとはな。さすがは女王の“秘匿”、絶対に漏れることがないらしい」
「どうやって肉体も魂もない貴様が……だがそんな姿で我々に勝てるとでも?」
レ=イリスの周囲には、既に眷属の蟲たちが次元を超えて集結し、この空間だけは、無限の軍勢と化していた。
世界のあらゆる狭間から召喚され、この空間を埋め尽くしていく。
しかし、カゲハはそれを見渡し、クックックと笑みを零す。
「蟲如きが……この
「ほざけ!」
レ=イリスの号令とともに、あらゆる方角から無数の閃光が放たれる。その光は座標ごと、カゲハの存在を削り取ろうとする。
立ち込める土煙。通常であれば、影も形も残らぬほどの攻撃だった。
──だが。
「本当に、分かっていないみたいだな」
その中心に、カゲハは平然と立っていた。
「なんだと……女王とは一体……う、ぐ……!」
レ=イリスは突如、何かに掴まれるような感覚に襲われる。
姿は自由であるはずなのに、体の芯を、魂を、座標そのものを鷲掴みにされるような、強烈な圧力。
「うぐ……! こ、これは……!経験が……あるぞ!サイキック……いや、そんな程度で我々が屈するとでも……!」
宙に浮かされたレ=イリスの体は、見えない掌に握り締められるかのように、じわじわと圧迫される。
「これがそんな矮小なものに見えるのか。お前、こんな程度で本当に自分が神のつもりか?」
カゲハの声は低く、冷ややかだった。
鎧も肉体も、何の意味も持たぬ。圧力はさらに増し、決して止まらない。
「……自分を握り潰すのって……案外、気が引けるな」
グッ……!
──パンッ!
音と共に、空中に血と肉の塊が弾け飛んだ。
レ=イリスは、一瞬の迷いもなく潰えた。
カゲハは静かに辺りを見渡す。
そして
そこには、尚も幾多の次元から呼び寄せられた蟲たちが、レ=イリスの無限の分体が、次々とカゲハを睨み据えていた。
『ワレラハムゲンナリ』
重なり合う蟲たちの声が、空間を振るわせる。
だが、カゲハは微笑んだ。
「わかってないな。この力は、“世界の掌握”だ。貴様らのいる世界の座標など、私からすれば──」
カゲハは静かに目を閉じた。
レ=イリスの気配は、侵略し支配した次元、これから侵食せんとする座標、あらゆる空間に点在している。
「103の世界か……これまでよく頑張ったじゃないか」
カゲハはその漆黒の瞳を見開く。
それは……人や神などとは異質な、
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