サラリーマンと月夜の蛍

驢垂 葉榕

第1話

 男は終着駅で駅員に揺さぶられて、小さくない頭痛とともに目を覚ました。当初、男は自身の置かれた状況すら思い出せなかったが、駅員に促されるまま改札を出るころには事のあらましを思い出した。つまり、金曜日の飲み会で3次会まで行って酔いつぶれ、帰りの電車を寝過ごした、というありがちな失敗を思い出した。


 外に出て空を見上げると、少しだけ欠けた月と普段よりずっと多くの星々が夜空に広がっていた。

 携帯を取り出し、現在地と時刻を確認する。場所は高尾駅、時刻はまもなく午前1時を回ろうとしていた。7月深夜の空気は少なからず暑気を孕んでいたが山が近いせいか極端に不愉快というわけではなかった。

 朝まで歩けば徒歩での帰宅も可能だろう。しかしどうにも気乗りしなかった。少し考えた末、男は始発を待つことにした。しかし始発まではあと4時間近くある。携帯の充電も心もとない。眠るのはなんだかもったいない気がしていた。アルコールで浮かれた頭は呼ばれるように、男を山の方へと進ませた。


 登り始めてみると山は驚くほど登りやすかった。道は十分に整備されていたし、傾斜はほとんどなく、月灯りもあって道は十分に明るかった。

 しばらく進んで森が迫り、そろそろ本格的な上りだろうかという考えが頭をかすめたころ、木々の隙間に浮かぶ明かりが見えた。平時であれば気にもしなかっただろう。しかし男は深夜に山をうろつく酔っ払いである。正常な判断能力が残っていなかった。またしても酩酊の赴くまま、男は藪をかき分けて進み―――転がり落ちた。


 男が落ちた先は小さなせせらぎだった。幸いにして転がり落ちた高さは1メートルほどで、沢の深さもくるぶしより少し深い程度だったので、被害と呼べそうなものはスーツが汚れたことぐらいだった。それでも男は激しい後悔に襲われて立ち上がれずにいた。気温よりもずっと冷たい水が、男から酔いをすっかり奪い去り、残ったのは己を苛む正気だけだった。。

 うずくまったままじっと手を見る男の脳裏には、過去の苦い思い出が浮かんでは消えていた。小さいころから要領自体はよかったがすぐに調子に乗って痛い目を見ることが多かった。結局大人になってもその性分は治らなかった。あの時真面目にまっすぐ進めていれば、そんな過去の後悔ばかりが今の自分に重なった。鼻の奥が痛み、視界がにじみかけた時、見つめる手の中に光が飛び込んできた。

 蛍だった。

 顔を上げた男は、自分が溢れんばかりの光の中にいたことにようやく気が付いた。その日の月と同じ、少し緑がかった蛍の光。その群れは涙が出るほどに美しかった。

 どれだけの時間そうしていただろう。星空よりも明るかった蛍の光は時間とともに少しずつ消えていき、気が付けば木々に止まるものが1つ2つ残るだけになった。男は子供の頃、卒業式で歌った”蛍の光”を思い出していた。勉強しておけばと後悔したことは少なくなかったが、蛍や雪をかき集めて勉強なんて今だってできやしない、そんなことを考えていた。多分、それでいいのだ。歴史に学べる人間、失敗しない人間、あらゆる苦難をはねのけて大事をなす人間。そんな人間なれやしない。だから恥を忍んでできることをやろう。そんなことを考えていた。


 立ち上がり、沢から上がり、元居た道に戻ると東の空が白み始めていることに気が付いた。確認すると時刻は4時を過ぎていた。男は来た道を戻ることにした。スーツは泥で汚れ、ひどく濡れていた。髪も乱れ、革靴にも手入れが必要だった。頭痛こそ収まっていたが、降りた時より惨めな見てくれであることは間違いないだろう。

 それでも男は来た時よりずっと確かな足取りで、まっすぐ歩いて駅へと向かうのだった。

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