第6話 幻覚の甘露

晋三の唇に触れた液体は蜂蜜のように甘かった。

暗闇の中に浮かぶ泉から湧き出た琥珀こはく色の液体が、喉の奥を焼き尽くす。酸素残量の表示は「13%」を指し、右目の義眼が熱を帯びて脈動する。

「……美恵子?」

泉のほとりに立つ女性の輪郭りんかくがぼやけている。黒いスーツの男が笑いながら近づき、晋三の後頭部を押さえつけた。

「餓鬼道の甘露は、罪人を癒やすぞ」

男の指が晋三の頬を撫でる。触れた瞬間、22年前の結婚式の記憶が蘇った。

「晋三! 今日こそ病院から逃げて!」

美恵子の声が泉に響く。晋三は無意識にチェーンソーを振り回し、水面に映った自分の姿を切り裂いた。すると――


鏡のような水面が砕け、無数の破片が晋三を貫く。痛覚はなかったが、黒い血が泉に混じり、巨大な眼球が形成される。


「お前の罪、ここに刻まれた」

男の声が泉底から響く。晋三の右目から黒い霧が噴出し、眼球が「災厄の瞳」の紋様を描き出した。

「晋三さん、この子の名前は…?」

美恵子の幻影が赤ん坊を抱き上げる。晋三の記憶が錯乱する。実際には死産だったはずの子供が、笑顔で手を振っている。


「……美咲…?」

つぶやいた瞬間、幻影の赤ん坊が崩壊ほうかいする。代わりに現れたのは、黒いスーツの男たちの群れ。彼らの手には、晋三の過去の罪業が具現化した鎖が巻きついていた。


「これは…俺が殺した人間たちか…?」


泉の液体が急に粘稠《がなる。晋三が舌を出して触れると、甘さの裏に鉄のような苦味が広がった。


「これは…血?」

男が嘲笑する。「餓鬼道の甘露は、罪人の血潮を精製したものや。飲めば飲むほど、お前の罪が深まる」


晋三は吐き気を催しながらも、泉に手を伸ばす。酸素残量の表示が「5%」まで急降下し、視界が真っ暗になる。

暗闇の中、晋三は自分自身と向かい合っていた。

左側の自分は無傷でチェーンソーを構え、右側の自分は血まみれで地面に跪いている。


「お前が選べ」

鏡像の自分が囁く。「罪を認めて死ぬか、狂気を抱えて生きるか」


右目の義眼が爆発し、晋三の頭蓋骨に黒い根が張り巡らされる。男の声が脳内で響く。


「選択権はねぇんや。お前はもう…餓鬼道の一部や」

酸素残量「0%」。

晋三は最後の力を振り絞り、チェーンソーで鏡像の自分を切り裂く。黒い血が噴き出し、泉が逆流し始める。


「美恵子…待って…」

叫び声が虚しく響く。泉の底から現れたのは、美恵子の遺体が腐敗した姿だった。


「……違う…!」

晋三がチェーンソーを地面に突き立てる。黒い根が爆散し、異世界全体が揺れる。

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永劫回帰:災厄の瞳 @misakimiyu

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