拾われた匙
増田朋美
拾われた匙
5月になって、やっと春らしくなってきたのも束の間で、今度は夏日と呼ばれる暑い日が続くようになってきた。そうなると、ちょうどいい季節というものはなくなってしまうのかと思われる日々が続いている。
その日、蘭の家にちょっと変わった雰囲気の二人組がやってきた。一人は男でもう一人は女であることから、カップルとか夫婦とか言われる形態であることに間違いはないのだが、その女性はなんとも言えないおかしな雰囲気を持っていた。髪は極端に短いし、一般的なおしゃれが好きな女性というところから、遠い服装をしていた。男性の方は、体型こそ一般的な男性という感じであったが、でもえらく疲れているようで、なんだかいかにも訳ありという感じの人であった。
「いや、彫たつ先生、お久しぶりです。一年ぶりかな。やっと妻の徳子がこっちに戻ってきてくれました。」
蘭は、この二人のことを、かつて自分のところへ刺青を入れに来た、戸狩寿美さんと、その妻の徳子さんであることを思い出すのに、数分かかった。なんとか、思い出そうとして、首を何度も横に振ってしまった。
「そうですか。あの、正直にいいますと、戸狩さんだったとは、思い出せませんでした。それくらい、雰囲気が変わってしまわれていて。」
蘭が正直に戸狩寿美さんに行ったところ、
「そうですよね。全くね、この一年は大変でした。妻が一年以上精神病院に入院させられて、本当に入院費の確保に困ってしまいました。容姿が変わったのは、職場や実家で、いろんなことがあったからでしょう。」
と、彼は答えた。
「そうですか。そんなに大変だったんですね。いや、お疲れ様でした。」
蘭がそう言うと、
「いやあ、そんなに大したことありません。知り合いの和尚様に聞いたら、そういってました。」
と、戸狩寿美さんはにこやかに笑った。ということは、そういう人にも相談したのだろう。
「それで、本日はどうされたのですか?何がありましたか?」
「実は、ちょっと話しにくいのですが、妻徳子の居場所についてです。退院してくれたのはいいのですけれども、家に一人でいさせて置くわけにもいかず、かといってデイケアのような場所にも連れて行くにもお金がかかりますしね。どこかで妻の面倒を見てくれるような場所がないかと思いまして。今日は、相談にこさせてもらったわけです。」
蘭がそう言うと、戸狩寿美さんは申し訳無さそうに言った。
「そうですか。そういう相談はよく乗らせてもらうんですけどね。例えば、無理やりどこかへ連れて行くだけではなく、家政婦さんとかに来てもらうとかの方法もあると思うのですがね。」
蘭がそう言うと、
「いやあ、そんな家政婦さんに来てもらうほど、余裕はないですよ。それより先生、どっかに彼女を連れていけるような場所はありませんか。」
と、戸狩寿美さんは言うのである。
「そうですが、デイケアのような場所に連れ出してしまうと、奥様が、自分はこの家で必要ないんだと思ってしまって、それで夫婦仲がこじれてしまう心配があります。実際、僕もそういう御夫婦を見たことがありますし。」
蘭は心配そうに言うと、
「いえ大丈夫です。この人が、そんなことをするような人じゃないってことは、見ていてよくわかります。だから私も、恩返しというか、そういうことしなければならないし。そういうことなら私、この人が指示した施設へ通おうと思います。」
と、徳子さんが言った。
「そうですか。でも実際に行きだしてしまうと、そういう施設は重い事情を抱えた人ばかりですから、どうしても社会から除外されたような気持ちになってしまうんですよ。それは、うちへ刺青を入れに来てくれたお客さんでたくさんいますので。みんな口を揃えていいます。世の中から、消されてしまって、自分の存在がわからないと。」
蘭が一般的なことを言うと、
「そうですが、でも、僕は今仕事が忙しくて、彼女をかまってやれないのもまた現状でして。僕は、工事現場で旗振りの仕事をしていますが、最近は夜勤もやるようになっていて、1日中家を開けてしまうことも多くて。先生の話もわからないわけではないですよ。ですが、本当に、彼女のことを見てやれないというのもまた、現状でしてねえ。」
と、戸狩寿美さんが言った。
「そうですか。わかりました。本当は、社会から除外してしまわないで、どこかに所属させてあげたほうが良いと思うんですけどね。しかし、仕方ない。そういうことなら、仕方ありませんね。そういうことなら、ここへ連れて行ったらいかがでしょう。」
蘭は、そう言って、製鉄所の電話番号を書いて、彼女に渡した。
「製鉄所、鉄を作るところですか?」
戸狩寿美さんが聞くと、
「いえ違います。そこは、居場所のない女性たちに勉強や仕事をするための部屋を貸し出す施設です。そこなら、いわゆるニートと言われる、何もしていない方はいらっしゃらないので、まだ社会から除外されたという落胆は少ないはずです。それに、お話を聞くのが上手な人もいますので、そこならつらい気持ちをしていても聞いてくれるのではないかと。」
と蘭は説明した。戸狩さんたちは顔を見合わせて、
「そうですか。そういうことなら、ぜひ。」
「ありがとうございます。あたしも、何もしないでなにかしていられるようになりたいと思います。」
と言ってくれた。蘭はある意味心のなかでホッとする。それは、蘭が言っている心配とはまた違う意味でホッとしたのであった。蘭は、製鉄所への行き方を簡単に説明して、一度、見学させてもらったら良いと勧めた。
一方、その製鉄所では、杉ちゃんとジョチさんが、全く手のつけられていないご飯のお皿を見て、大きなため息を付いていた。
「これじゃあ、いつまで経っても食べれない。」
杉ちゃんは、頭をかじった。
「そうですね。食べたのは、たくあん一切れだけですか。杉ちゃんが一生懸命作ったと言ってもだめなんですね。それでは、どうしたら良いものでしょうかね。食べろといくら言ってもだめなんですよね。」
ジョチさんも困った顔をしている。
「なんとかして、食べてもらわないと。人間は動物だから、食べないと死んじゃうと説明しないと、だめかなあ。」
「いや、それだけでは水穂さんには聞かないと思いますよ。食べなければだめということよりも、もっと複雑な理由があって食べないのでしょうから。」
「腹が減って、苦しいとか、辛いとか、そういう気持ちにはならないってことか。」
「ええ、一目瞭然じゃないですか。人間は、病んでしまうと、体だけではなく心もおかしくなってしまうのでしょうかね。食べないでも、平気で入るというか、食べてはいけないと思い込んでしまっている。だからああして、食べ物と口にいれると、吐き出してしまうのでしょうね。」
杉ちゃんとジョチさんが、そう言い合っていると、いきなり製鉄所の玄関の引き戸がガラッと空いた。
「失礼いたします!こちらが、製鉄所と呼ばれている福祉施設でしょうか。あの、今日から利用させてもらいたくてこさせてもらいました。戸狩寿美と申します。」
「あれえ、誰だろう。」
聞いたことのない声だったので、杉ちゃんとジョチさんは顔を見合わせた。
「とにかくお通ししましょう。」
ジョチさんがそう言って、はいどうぞといい、玄関先へ行った。玄関先には、先程蘭の家にいた夫婦がそこにいたのであった。
「ああ、こちらが製鉄所で間違いないですねえ。こちらで、女性の居場所を提供していると聞いたものですから、僕達も利用させていただきたくて、こさせてもらいました。希望しているのは妻の、徳子です。」
寿美さんが紹介すると徳子さんは、よろしくお願いしますと頭を下げた。
「戸狩徳子です。よろしくお願いします。」
「わかりました。とりあえず中にお入りください。」
ジョチさんがそう言うと、戸狩さんたちは、ありがとうございますと言って、急いで建物の中に入った。ジョチさんは、二人を、応接室と呼ばれている部屋に案内した。
「それで、どうしてこの施設を利用しようと思ったのですか?」
ジョチさんが聞くと、戸狩さんは、戸狩徳子さんが、家に一人になってしまうので、それでは可哀想だし、徳子さんを一人でおいておくのももしものときに困ってしまうのでと答えた。そして自分が仕事で忙しいので、徳子さんのことをかまってやれないのも話した。
「はあ、なるほどなあ。」
と杉ちゃんが言った。
「それじゃあ、利用してもいいと思いますよ。それなら、毎日利用してもいいし、決まった曜日に来てくれるような利用の仕方でもいいですよ。」
ジョチさんがそう言うと、
「じゃあ、そうさせていただきます。それでは、一日こちらで預かってください。僕は、五時に迎えに来ますから。仕事がありますので、失礼いたしますが、ちゃんと利用費などは、払いますので。」
寿美さんは、申し訳無さそうな顔をして、急いで製鉄所を出ていった。それを、徳子さんは、にこやかなかおをして見送った。
「とりあえず、まず初めに、みんなにご挨拶だな。まだ利用者さんたちは来てないんだ。みんな、通信制高校とか、半日だけ働いてるとか、そういう人ばっかりなのでね。」
と、杉ちゃんが言う。
「とりあえず、自己紹介しておきましょうか。僕は、ここの施設の管理を任されていまして、曾我と申します。そして車椅子に乗っているのは、主にご飯を作ってくれている、杉ちゃんこと、」
「影山杉三です!」
ジョチさんと杉ちゃんがそう言い合うと、
「ありがとうございます。私は、戸狩徳子と申します。」
と徳子さんは頭を下げた。
「こちらでは、勉強するとか仕事をするとか、そういうことをするために部屋を貸しているのですが、なにかやることはありますか?」
とジョチさんが言うと、
「それが何もありません。私、一年以上精神病院にいたものですから、何も特技も何もなくて。」
と徳子さんは言った。
「そうか。じゃあ、とりあえず体はあるということで、それでは、中庭でも掃いてもらおう。竹箒を出して、中庭を掃いておくれ。」
杉ちゃんに言われて徳子さんは、
「わかりました。」
と言って、掃除用具入れから、竹箒を一本取り出して、中庭を掃き始めた。庭は、松の葉がたくさん落ちていて、掃くのには結構手間がかかった。
「ごせいが出ますね。」
急に声をかけられて、徳子さんが振り向くと、水穂さんがそこにいた。
「あ、こちらの利用者さんですか?」
「こちらに間借りしている人間で磯野水穂と申します。」
水穂さんがそう言うと、徳子さんは一瞬ぼんやりとしてしまったようであるが、すぐに戻って、
「ああ、申し訳ありません、すぐに庭を掃く仕事に戻ります。」
と言って、急いで庭を掃く作業を始めた。
「いえ、大丈夫ですよ、ご自身のペースで、庭を掃いてください。」
水穂さんはそう言って、部屋に戻ってしまったが、徳子さんはその顔をじっと見つめてしまった。こんなにきれいな男性は初めて見たという顔で。しばらく、庭を掃くのも忘れてしまったようだ。風がふいてきて、彼女の足元に、松の葉を飛ばすまで、彼女はぼんやりとたってしまった。庭掃きの仕事に戻るまで数分かかった。
徳子さんが一生懸命庭掃の仕事をしていると、どこからか変なふうに咳き込んでいる声が聞こえてきた。誰だろうと思ったけれど、徳子さんはそれを追求しようとはしなかった。
その日は、庭掃の仕事と、製鉄所の床を水拭きする仕事をして、製鉄所の終了時刻である17時を回ってしまった。約束通り、寿美さんが迎えに来てくれた。徳子さんはジョチさんにお礼を言って、寿美さんと一緒に家に帰っていった。寿美さんと一緒に家に帰りながら、徳子さんはずっとニコニコしていたので、寿美さんは不思議がっていた。
「お前、どうしたんだ?なんか良いことでもあったか?」
寿美さんが帰りのバスの中で聞くと、
「ええ、とってもきれいな人がいたの。なんか、外国の俳優さんみたいにすごい綺麗だった。あたし、惚れ惚れしちゃった。」
嘘がつけない徳子さんはそんなことを言った。
「はあ、そんなに美しい人がいたもんか。」
と、寿美さんはそれだけ言ったのであるが、徳子さんは、ニコニコしたままであった。
次の日も、寿美さんと徳子さんは、一緒にバスに乗って、富士山エコトピアのバス停で降ろしてもらい、製鉄所に行った。寿美さんは、今日も徳子をよろしくお願いしますと言って、また職場へ行った。徳子さんは、また製鉄所に入らせてもらい、庭の松の葉を掃く仕事をし、製鉄所の床拭きをし、今度は杉ちゃんがご飯を作るのを手伝った。ご飯は、白粥であった。それを器に乗せて、水穂さんに食べてもらうのだという。徳子さんは、ご飯を食べさせるのを手伝いたいと言った。杉ちゃんが、じゃあちょっと来てくれと言って、徳子さんと一緒に、水穂さんの部屋へ行った。
「おい、ご飯だぞ。今日こそしっかり食べてもらうぜ。もう御飯食べないと、人間は、動力を得られないぞ。」
杉ちゃんはそう言いながら水穂さんのサイドテーブルに、ご飯を置いた。水穂さんは一応、布団に起き上がってくれて、杉ちゃんから渡された、おかゆのお匙を受け取ってくれて、口には入れてくれたのであるが、咳き込んでしまって、お匙を何処かへ放り投げてしまうばかりか、赤い液体と一緒に御飯を吐き出してしまうのである。
「馬鹿な真似はよせ!」
杉ちゃんはムキになって言った。それでも水穂さんは咳き込んでしまう。
「やめろってば!」
杉ちゃんに言われても、水穂さんは咳き込んだままだった。
「もうさあ、ちゃんと食べようという気持ちを持ってくれ!いいか、人間は動物なんだ。ご飯は食べないと、体が動かなくなっちまうんだ。だから、食べないとだめなんだよ!」
背中を擦ってやりながら、杉ちゃんはそういうのであるが、水穂さんは咳き込んでしまうのであった。すると、水穂さんの目の前に、いつの間にか、放り投げられてしまったはずのおさじが差し出された。
「水穂さん食べましょう。私、経験してるからわかるけど、精神病院ではご飯を食べないで居ると、保護室って言って、自分の意思では何もできない部屋に入れられてしまうんです。そんなの、嫌じゃないですか。そうならないためにも食べなくちゃ。」
そう言って、お匙を差し出したのは、徳子さんであった。杉ちゃんに背中を擦ってもらって、やっと咳が和らいだ水穂さんは、
「それは、身分が、高いから、」
と言いかけたのであるが、
「そんなことありません。私達は、みんな世の中から除外されてしまいます。私もそうだったし、精神病院に入って隔離されればみんなそうです。だから、こういう人間を相手にしてくれる人のことはありがたいと思わなくちゃ。私達は捨てられて当たり前なんですから。」
と、徳子さんは言うのであった。水穂さんはそういう意味で言ったわけではないという顔をしたが、
「誰だって同じですよ。金持ちであれ、貧乏であれ、精神を病んでしまえばみんな除外されてしまうんです。今の世の中はお金を作れる人間ではないと相手にしてもらえない社会ですから、できない人間を相手にしてくれる人には、感謝の気持ちを込めて、食べなくちゃ。それが、私達ができる唯一の恩返しではないでしょうか。」
徳子さんはそういうのであった。
「ホントだホントだ。そういうこと言ってくれるんだから、ほら、しっかり食べような。」
杉ちゃんに言われて、水穂さんはなんとか、お匙を口にしてくれた。また咳き込んでしまいそうになったけれどなんとか中身を飲み込んだ。
「水穂さんは食べ物を食べちゃいけないっていう、思い込みがあるんですね。だけど、そんなことありませんよ。食べ物はあたしたちにとって必要なものですし、何よりも食べ物を食べてあたしたちは生きてるんじゃありませんか。それをしてはいけないなんて、そんなことを言う人はどこにもいません。」
徳子さんはそう言って水穂さんを励ました。だけど、それはどこか無意味な言葉のようであった。でも徳子さんは、一生懸命水穂さんに声をかけて、水穂さんもなんとか食べようとしてくれて、わずか2口だけだけど、おかゆを口にしてくれることは成功した。
「良かった。やっぱり人間は食べるために生きているんだから、たとえ国からお金もらって食べさせてもらっている立場であっても、食べなくちゃだめなだなって気持ちはちゃんとあるんです。」
と、徳子さんはにこやかに言った。水穂さんはなんと罪深いことをしたんだろうと言う顔をしているのであるが、
「そんな顔しないでください。水穂さん、いくらからだが大変であっても、食べるということはしなくちゃだめですよ。」
と徳子さんは言うのであった。杉ちゃんがそれに便乗して、この調子で明日も食べてくれよなといっても水穂さんは答えなかった。
「先生、一体俺達は、どうしたらいいんでしょう。徳子は、水穂さんのことでえらく心配しているんです。水穂さんがどうしてもご飯を食べないって言って。」
蘭の家を訪れた寿美さんは、そう蘭に言った。蘭もそこまで深刻とは、と思わず呟いてしまった。
「そうですか。水穂には、もうちょっと生きてほしいと思っているんですけど、ご飯を食べないとなれば大事ですよね。ほら、有名なバンドのボーカリストの女性も、それが原因で亡くなってしまいましたし。」
「そうですね。俺も、徳子の話を聞いているだけでも水穂さんが可哀想になりますよ。彼はどういうきっかけで痩せようと思ったんでしょうかね。俺、平凡に生きていればそれで十分幸せだと思うんですけどね。だけど、彼にはそれが見えてないってことですかね。」
「寿美さん。」
蘭は、涙をこぼして寿美さんに言った。
「水穂に、そのこと伝えてやってくれませんか。平凡に生きていれば十分なんだって。徳子さんだってそれを知っているはずでしょう。だったら、水穂にもそれを伝えてやってくれますか。」
「いやあ先生。俺は口下手で、そんなかっこいい台詞は言えませんよ。徳子も、同じじゃないですかねえ。」
蘭は、寿美さんにそう言われて大きなため息を付いた。そして自分のしたことを偉く後悔した。
拾われた匙 増田朋美 @masubuchi4996
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