私にとって読書とは

加賀倉 創作【FÅ¢(¡<i)TΛ§】

無限の質疑応答

 読書とは、対話である。


 読書というものは、自分とは別な存在すなわち他人の内面──未知の思想や感情──に触れるという意味において、「人との対話」というものと、本質的に同義である。


 著者のある読書と、生身の人との対話との、異なる点があるとするならば、それは一見すればほとんど一方向であるという点である。著者は読者の眼前にいない。


 換言すれば、読書は、議論というよりも、スピーチだとか演説の類に近い、ということである。


 が、この読書というものを、〈社会的対話〉、というふうに、視野を拡大、巨視的にしてやると、一方向的ではなく、多方向的なものとして捉えることが可能である。


 つまりは、読書体験を通じて増強された自己の思想や感情を、再言語化して(このカクヨムという場などに)発信すれば、観念の矢印は一つで済まされない、ということである。


 たとえば、野球の、ピッチャーが投げた球があり、それが相手の思い、考えである。これを、読者たる自己、バッターが打つ。その球は、多くの場合、ピッチャーのミットには回帰しない。代わりに、左右の枠の外──ファールとなったり、バッターボックスとは反対側のフェンスの向こう側、客席ひいては場外のホームランとなったりする。もちろん真中見逃しや空振りストライクもある。球は、発信者たるピッチャー本人には返らないが、観客、すなわち広範な社会へと、伝播する。バッターという自己の打球が、ファールとなれば「「「あぁー↓」」」とネガティヴ的に、ホームランとなれば「「「ワァーッ!!!」」」とポジティブ的に、元はストレートやカーブの投球に過ぎなかったものが、試合会場の落ち込みや興奮という形に再形成されるのである。これが〈社会的対話〉である。


 現実の対話には話し相手が必要であるし、野球には二チームと審判やボールボーイや相当数の観客などが必要であるが、読書というのは、本一冊、読み物一つあれば、だれか対話相手を拘束せずに、自分にとって未知の存在を自分の好きな時に手に取ることができるという、画期的な〈社会的対話〉実現手段なのである。

 もちろん、現実の対話のようにリアルタイム、即時の質疑応答ではなく、タイムラグを伴いはするが、特段急ぐことはないはずである。対話による止揚しよう醸成じょうせいは、じっくりすればよい。


 そもそも、著者が読み物を不特定多数に出版発信する時点で、一方向的ではなく多方向的であること、これも鑑みれば、言葉の紡ぎを残すことそのものが、大いなる対話の根源であるとも言えるだろう。

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私にとって読書とは 加賀倉 創作【FÅ¢(¡<i)TΛ§】 @sousakukagakura

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