第16話 時の回廊

登場人物


クロノス・アビサル:時を司る悪神。冷徹だが、知的好奇心は旺盛。

アーデン・グレゴリー・晴明せいめい: バー「クロノス」のマスター。元賢者。

アーデン・ヴァレンタイン・しょう:晴明の孫。15歳。共和国の議員見習い。



プロローグ



バー「クロノス」の空気は、真実が明らかになった後も、晴れることなく重く垂れ込めていた。自らが引き起こした悲劇の全容を思い出したアビサルは、珍しく不機嫌さを隠すこともせず、ただカウンターの一点を見つめて沈黙している。その横顔には、自嘲と、そして神としてのプライドを傷つけられたことへの屈辱が複雑に浮かんでいた。


「…原因が判明した以上、あとはアビサル様のお力で、かの哀れな騎士の魂を救済するのみですな」

晴明は、あえて普段通りの落ち着いた口調で言った。彼にとっては、元凶がアビサルの呪いであるならば、それを解くのもまたアビサル自身であるのは、自明の理のように思えた。


しかし、アビサルの口から返ってきたのは、意外な言葉だった。

「無理だ」

その一言は、静かだが、絶対的な響きを持っていた。

「この世界にいる限り、我輩の力をもってしても、あの呪いを完全に解くことはできん」



第一幕:世界の理の違い



「…な、なんと? アビサル様ほどの御方が、ご自身の呪いを解けないと、そうおっしゃるので?」

晴明は、長年の人生で培った冷静さをかなぐり捨て、素直な驚きを声に滲ませた。彼の中で、時の神クロノス・アビサルは、時間に関することであれば万能の存在だった。その神が、自ら「不可能だ」と断言したのだ。


アビサルは、苛立たしげに舌打ちをした。

「賢者よ、お前ほどの男が、まだ世界の理を理解しておらんのか。我輩がいた世界と、今我々がいるこの世界とでは、そもそも『時間』そのものの流れ方、その法則が異なるのだ」


アビサルは、カウンターの上に指で二つの円を描いた。

「我輩がセバスチャンにかけた呪いは、あくまで元の世界の法則(ルール)に則って編まれたものだ。それを、全く異なる法則で動いているこの世界で無理やり解こうとすればどうなる? 術が暴発し、セバスチャンの魂ごと消滅させるか、あるいはこの世界の時間に修復不可能なほどの亀裂を生じさせるか。いずれにせよ、ロクな結果にはならん」

それは、プログラムの互換性にも似た理屈だった。OSが違えば、アプリケーションは正常に動作しない。それと同じように、世界の理が違えば、術は本来の効果を発揮しないのだ。


「では、あの騎士は、永遠にこの世界を彷徨い続けるしかないと…?」

晴明の声に、絶望の色が浮かぶ。自らの旧敵が原因とはいえ、忠義の騎士が、異世界で永遠の苦しみを味わい続けるというのは、あまりにも救いがない。


晴明は、答えの出ない問いに頭を悩ませていた。だがその時、ふと、ある疑問が彼の脳裏をよぎった。それは、この絶望的な状況における、唯一の矛盾点だった。


「…アビサル様。一つ、お聞きしてもよろしいかな」

晴明は、顔を上げた。「もし、二つの世界がそれほどまでに異質なものならば、なぜわしは、時折、孫の翔と通信ができるのです? あの『三日月の宝玉』を通して、彼の声を聞き、こちらの声を届けることが」


その問いに、アビサルは初めて、口の端を愉しげに吊り上げた。



第二幕:世界を繋ぐ楔



「ククク…ようやくそこに気づいたか、賢者よ。お前と、お前の孫。その二つの魂を繋ぐ、血よりも濃い絆。我輩がこの世界に転移する際、それを利用させてもらったのだ」

アビサルの瞳が、全てを見通すように妖しく光る。

「ただ次元を渡るだけでは、我々の存在はこの世界の理に弾かれ、いずれは希薄になって消えていただろう。だから、楔(くさび)が必要だった。この世界と元の世界を繋ぎ止め、我々の存在をこの地に定着させるためのアンカーがな」


アビサルは、晴明と翔の魂の繋がりを、そのアンカーとして利用したのだという。

「お前たちの絆を座標軸として、二つの世界の間に、細く、か細い道(パス)を通した。普段、その道は閉ざされているも同然だが、お前たちが強く互いを思う時、あるいはあの宝玉を介して交信しようとする時、二つの世界は、ごく僅かな時間だけ、その法則を『同期』させるのだ」

それは、神のみが可能な、世界の法則そのものへのハッキングだった。晴明と翔が通信できるのは、その僅かな同期時間において、二つの世界が一時的に同じOSで動いているからに他ならなかった。


晴明は、息を呑んだ。アビサルの行動は、常に彼の想像の斜め上を行く。

だが、その驚きは、すぐに新たな希望へと変わった。

「…アビサル様。もし、二つの世界が同期可能なのであれば」

晴明の声が、震える。

「その同期した状態であれば、セバスチャンの呪いを、元の世界の法則に則って解くことも可能なのではありますまいか!」



第三幕:古びた杯の交信



「ほう。察しが良いではないか、賢者よ」

アビサルは、満足げに頷いた。

「その通りだ。だが、それには力が足りん。お前と孫との通信のような、受動的な同期では弱すぎる。呪いを解き、さらにセバスチャンの魂を元の世界へと送還するための『門』を開くには、もっと強大な力で、能動的に二つの世界を同期させる必要がある」


アビサルは、三本の指を立てて見せた。

「術の行使には、三つの基点が必要だ。まず、呪いをかけた張本人である、この我輩。次に、この世界側の楔である、お前、晴明。そして…元の世界側の楔である、お前の孫、アーデン・ヴァレンタイン・翔。…奴の協力が、絶対条件だ」


晴明は、覚悟を決めた。共和国の指導者となった孫に、あまりにも大きな負担をかけることになる。だが、他に道はない。

彼はカウンターに置かれた『古びた杯』に手を伸ばし、精神を集中させた。杯は主の決意に応え、柔らかな光を放ち始める。光は徐々に強まり、やがて目の前の空間に、揺らめく水面のようなスクリーンを映し出した。


『…おじい様?』


スクリーンの向こうに現れたのは、成長した孫、アーデン・ヴァレンタイン・翔の姿だった。共和国の執務室だろうか、その表情には指導者としての貫禄が備わっているが、祖父の姿を認めると、懐かしい青年の顔に戻った。



エピローグ:賢者の孫の決意



「翔、息災か。急な連絡、すまぬ」

晴明は、これまでの経緯を、簡潔に、しかし誠実に語り始めた。時の神アビサルのこと。日本という異世界に来ていること。そして、かつての近衛騎士団長セバスチャンが亡霊となって、この世界を脅かしていることを。


翔は、静かに祖父の話に耳を傾けていた。そして、「セバスチャン」の名が出た時、その表情がわずかに曇るのを晴明は見逃さなかった。

『セバスチャン教官…』翔は、懐かしむでもなく、憎むでもなく、ただ複雑な響きでその名を繰り返した。『彼が、亡霊に…』


「翔。お前も、彼を知っておったか」

『ええ、もちろんです』と翔は頷いた。『王立学院で、じかに剣と時の秘術の指導を受けました。厳格で、厳しく恐ろしい人でした。…あの狂王に仕えてさえいなければ』

翔の目に、暗い影が落ちる。

『セバスチャン教官は、最後は王を諌めていたように思いましたし、私を庇おうとも・・・。』


それは、晴明も知らなかった、セバスチャンのもう一つの顔だった。

翔は、セバスチャンに対して、複雑な思いを抱いていたのだ。尊敬と、そして狂気の片棒を担がされたことへの反発。そして何より、忠義のために心を殺すしかなかった男への、深い憐憫。


『…話は分かりました、おじい様』

長い沈黙の後、翔は顔を上げ、きっぱりと言った。その瞳には、若き指導者の決意が宿っていた。

『セバスチャン教官が、そんな哀れな姿で異世界を彷徨っているというのなら、見過ごすわけにはいきません。それに、おじい様の世界の危機は、いずれ我々の世界にも影響を及ぼしかねない。共和国の指導者として、そして、あなたの孫として、協力を惜しみはしません』


「…すまぬ、翔。恩に着る」

晴明の目頭が、わずかに熱くなる。孫は、自分が思っていた以上に、強く、そして賢明な指導者へと成長していた。


『儀式の準備が整い次第、いつでも声をかけてください。こちらはいつでも応じられるよう、準備しておきます』

翔は力強く頷くと、通信は静かに途絶えた。

バー「クロノス」には、再び静寂が戻る。だが、それはもはや停滞の沈黙ではなかった。

二つの世界を繋ぐ、壮大な儀式への道が開かれたのだ。あとは、その舞台を整えるだけだった。


(第16話 完)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る