雄弁な銀
依近
雄弁な銀
◇
人群れの中で自身を見失えることに、安堵したりして。ガタン、トトン。突っ張った革靴の裏、伝わる振動に乗せて揺らす体。夜を流す窓に向ける視界の中、影に沈む街の上に透けた自身の影。
周囲と変わらない無彩色なスーツとネクタイ。似たような目的、同じような時間を過ごして、一様の疲労を背負った姿勢で吊革にぶら下がる。事実をまとう体は浮くことなく馴染んで、黒名は込み上げる息をフゥとマスクの内側に吐き出した。
大半の人が降りる駅のアナウンスで、吐き出される人群れに乗りホームに降りる。湿気た空気と独特の匂い。数秒間だけ足を止めて、錆びた鉄骨が覆う屋根を仰いだ黒名は、スンッ小さく洟を慣らした。
規則性なく通り過ぎる人群れは、立ち止まったままの黒名をまるで透明人間であるかのように避けていく。黒名は肌に感じる人の気配にフゥと安堵の息を吐いて、出口に向けて歩き出した。改札を抜け、階段を降りて立つ駅前の空気。横切る自転車をやり過ごし、信号が変わるのを待って横断歩道を渡る。
少ない外灯と、疎らになる人の気配。独特の匂いは地続きに街中に満ちている。スゥハァと繰り返す吐息の音を耳底に聞きながら、肩の力が抜けていくのを感じた。
足を止め、顔を向ける強い光源。そこだけ真昼と勘違いしそうになるほど惜しげもない光に引かれて、イメージカラーのラインが光れたガラスの自動ドアに足を向ける。
店内かごを手に取って、ガラス張りの巨大冷蔵庫の前に立った。扉を開けて、銀や金の缶を次々とカゴに放り込んでいく。ガチャガチャ鈍い音で擦れる缶を手に、レジで会計を済ませて再び外に出る。
「クロ」
暗闇に慣れかけた目に浴びた光源。そして、見上げた先のぼんやり揺れる白灯り。
疎らな星の散る夜空に目一杯身を乗り出して、大きく手を振る人物に目を細める。
「おかえりー」
ヒラッと手を上げて応えながら、黒名は立てた人差し指を唇の前に添えた。
対する相手は乗り出していた体を引っ込めて、両手の人差し指でばってんを作って唇を塞ぐ。
黒名は素直な相手に頷きを返し、車通りの無い車道を横切り建物まで走る。薄いビニール袋の内側でガチャガチャと擦れる缶。染み出した水滴がポタポタ落ちて地面に濃い水玉を描いた。
エレベータで目的階に上がり、グレーの扉を2回ノックする。カチン、とサムターンを立てる金属音のあと、開いた隙間から色素の薄い瞳が覗いた。
「おかえり」
「ただいま。電気つけて」
「ん、了海」
淡い白が室内を照らす。同居人はフフッと歌うように笑って、ドアを押さえていた手を離し、室内に戻っていく。
黒名は玄関に入ってサムターンを倒してから、サイドボードに乗っている伏せられた郵便物を表に返す。内容を確認してからダイレクトメールを掴んで室内に上がり、キッチンの作業台の上にビニール袋を下した。
「なんかすげーいっぱい」
洗面所で手洗いを済ます間に、扉を開けたままのキッチンから通って聞こえる声。
「明日も平日じゃね?」
「んー、まあ、うん」
「グラス出す?」
「缶のままでいいだろ」
「そういうもんかあ」
ジャケットを脱ぎ、ネクタイを解いて、襟元と手首のボタンを外す。
キッチンから出てきたタイミングで鉢合わせた同居人は、手にひとつだけグラスを持っていた。
「おれはグラス使ってもいい?」
「好きにしな」
「うん、する」
入れ替わりに黒名がキッチンに入り、作業台の上に置いたビニール袋を掴んでリビングに移動する。ワンルームの部屋に区切りなどあったものではないけれど、色やラグでなんとなく役割をもたせたスペース。ローテーブルを挟んで先にラグの上に座った同居人を跨いで飛び越え、黒名はベッドとの隙間にビニール袋と腰を下ろした。
「開けてあげる。何飲むの?」
同居人はビニール袋の口を広げて、慣れた手つきでテーブルの上に勘を並べ始めた。適当に置いているだけのようなのに、ラベルが全て黒名の方を向くように、大量の缶を重なり合うことなく置いていくセンスに思わず目を細める。
「その青いやつ」
「了解。ねえ、ちょっともらっていい?」
「どうぞ」
「ありがと」
プシュッ、と空気の抜ける音に混じる、同居人の黒く染めた爪が金属に擦れる音。同居人は自身のグラスに中身を注ぎ、色素の薄い目を僅かに丸く見開いた。
「普通の色だ」
「青いわけねえだろ」
「そういうもんかあ」
ふぅん、と。天井から照らす白いシーリングライトに真っ青な缶を透かして揺らす。
飲み口から淡い音立てて柔らかく立つ飛沫の音。黒名は同居人の手から缶ビールを受け取り、ジッと彼の手元に視線を向けた。
「乾杯」
「ん」
両手に包まれたグラスの表面からパチパチ爆ぜる飛沫の音が立つ。傾け、縁をぶつけ合った反動でトプンと揺れる表面。黒名は缶を一口飲んでから、テーブルを指先で叩いて同居人のグラスを誘った。同居人は柔らかく笑って、黒名の缶が注ぎやすい位置へとグラスを差し出す。
「ありがとーございます」
「美味いかよ」
「苦いねえ」
「あ、そう」
ベッと垂らした舌に光る銀のピアス。閉じた下唇にも飾る銀はなんだか痛そうで、目にするたびにゾワッと胃の浮くような感覚を覚えた。
「ねえ、こっちも開けていい?」
「どーぞ」
「匂いさ、結局酒の匂いするからよく分かんないよね」
「果汁なんてほぼ入ってねえっしょ」
「ありゃ、本当だ」
缶をグルッと回して、1桁ぼ数字を見つけた同居人はそれを指さし機嫌よく笑う。同居人はビールが残ったままのグラスに果実のチューハイを注いで煽り「苦い」と笑いながら声を上げた。
「お前、結構飲むのな」
「そー見える?」
「まあ、出会いが強烈だったから」
「んー?」
「街と同じ匂いがした」
「へえ」
同居人は色素の薄い目を細めて、ゆったりと頭を傾ける。仄かな赤が滲む白すぎる肌。オーバーサイズの白無地のシャツから覗く首筋も赤く、淡い息を吐く口内は濡れて濃い色を晒した。
「あの時手を引いてくれたのが、黒名でよかったって思うよ」
「お前が呼んだんだろうよ」
「そうだっけ?」
「そーだよ」
「ふぅん……」
飲みかけのグラスを置いて、テーブルに伏す同居人。生え際まで綺麗に色が抜けた金髪は頭を倒した動作に連れてふわり落ちて、細い髪が綿毛のようにゆらゆら揺れる。
「ねえ、クロさ」
「なに」
「寝れないの?」
テーブルに頬が付くほど低い位置から、ジッと上目遣いの角度で向けられる瞳。黒名はその瞳を見返してパタタと瞬きをし、アルコール臭のする息を吐きながら目を逸らした。
「昨日も唸ってた」
「うるさくてごめん」
「いいよ。おれ夜型だから、夜はずっと起きてるし。クロもいっしょに」
「夜通し起きてたら身がもたない」
「大変だね、サラリーマン」
「そうでもねえよ」
テーブルに乗せた缶ビールを傾け、底をぐるりと回しながら。
「大変なんかじゃない」
口元を隠した掌の内側で繰り返す。ハァと吐いた息が皮膚に触れて、湿気た熱で微かに濡れた。
「くろな」
起き上がった頭が、荷重に振られるように大きく揺れる。黒名はハッと目を見開いて、テーブル越しに身を乗り出して同居人の肩を掴む。
「シロ……ッ」
骨ばった肩の感触にゾワッと湧く背筋。反射で呼んだ声に、シロはパタと瞼を瞬き光の揺れる瞳を黒名に向けた。
「お前、酒強くねえだろ」
「ふぇ、へへ……はじめてのんだ」
「はぁ!? うっそ、お前……言えよ、そういうことは」
「うん……じゃあ、おぼえて」
虚ろな視線を瞼で閉じて、シロは黒名の掌を自身の頬に添えさせる。皮膚に滲む熱と、速い族度で脈打つ律動。掌の内側に触れる滑らかでキメの整ったシロの肌質に黒名は思わずギリッと強く奥歯を噛んだ。
(擦れてるようなのに、全然で。驚くほど傷ひとつなく、綺麗)
摺り寄せられる頬に、撫でるように微かに動かす指先。シロはゆったりと微笑んで、銀の光を反射する唇をぼんやり開く。
「くろなの中に、おれを刻んで」
「……うん」
「あー、これダメだねえ。酒ってこんななんだ……あたまふわふわするー」
ふわふわの頭をグラグラ揺らしたシロは、そのまま力尽きたように再びテーブルの上に沈む。
「寝たら?」
「うーん、うん……あはは、おれきょう寝てばっかかも」
「いいじゃん、節約」
「ん……くろなも、ねようよ」
とろけるように、眠りに落ちる。長い睫毛の縁取る瞼。初めて聞く寝息。
黒名はテーブルの上に落ちた金髪に指を絡めて、パララと散らした。知らないことだらけのまま、一緒に暮らす同居人。必要以上の絆を結ばないままに、零れ落ちた事実だけを拾って、刻む。
(秘密は、お互い様)
捨てるために持ってきたダイレクトメールの宛名に目をやり、焦点をぼかした。カーテンを引いていない窓と、少しだけ開いた隙間から吹き込む夜風。
「俺はこいつを、何も知らない」
黒名は目を閉じ、静寂に唯一響く息遣いに耳を澄ませた。
《END》
雄弁な銀 依近 @ichika115
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます