第5話


 「お前さん…記憶喪失なのか?」

 ヴィンチが水に濡らしたタオルをこちらに手渡しながら、そんな事聞いてくる。

 何言ってんだこいつ?

 俺が記憶喪失?ある訳ねえだろ。

 ただまあ、一理はあるな。

 なんせ、現状自分の名前すら思い出せないんだからな。

 「記憶喪失って訳じゃねぇよ。住んでた場所も、仕事仲間の顔だって覚えてる」

 名前と此処に来た経緯以外は、簡単に思い出せるのに、何でか名前だけ雲に隠れた様に出て来ない。

 畜生が。

 「じゃあ何で名前を覚えてねぇんだよ。此処の名前も知らねえ、頭でも打ったんじゃねぇか?」

 ヴィンチに渡されたタオルで、身体を拭きながら応答する。

 「名前以外は覚えてるんだよ。日本ってとこで生まれて、〇〇県で生活して!病院行って!酒飲んだら此処にいたんだよ!」

 可笑しな状況に、無意識に不満が募っていたのか、声が少し荒くなった。

 身体から血と汗を拭き取ったタオルは、完全に真っ赤に染まっていた。

 これが自分の身体から出たと思うと恐ろしい。

 「酒なんて飲むからそうなるんだろ。第一、酒で気を失ってる様な奴の言葉なんか誰が信じるか。夢でも見てたんだろう」

 ……。

 ぐうの音も出ん。

 正論すぎる。

 酒飲んだからこうなった。その通りだか、その通りなんだか、…納得はいかんだろ!

 納得したらダメなんだよ。

 寝て起きたら日本。それが普通なんだよ。

 寝て起きたら異世界、じゃねえんだよ。

 こんにちは異世界、さようなら日本…じゃねえんだよ!

 「取り敢えず、お前今日からラヴァだ。暫くはその名前で過ごせ、記憶も、暫くすれば戻るだろうよ」

 …そう願うよ。

 ヴィンチはそう言うと家の奥に進んで行き、暫くすると、木皿に入ったスープらしき物を持っているヴィンチの姿が目に入る。

 スープ!

 そのスープを見たと同時に、腹から獣の雄叫びの様な轟音が鳴り響く。

 スープから発する匂いが、放りさっていた空腹感を一気に戻す。

 「森で迷ってたんなら、腹減ってんだろ。まずは先に腹ごしらえしろ」

 身体を拭いていたせいでパンイチの状態だったが、食っていいと言われて直ぐに、目の前のスープを掻き込んでいた。

 ……うっま。

 味は…鶏ガラスープみたいな味だな。

 淡白、にしたって…うめぇな。

 具材も何か入ってるみたいだが、イマイチ何か分からん。

 鶏肉の様な、豚肉の様な、何だこれ?

 ただ、味付けも無いしたことねえのに、なんかうめえ。

 自然と顔が蕩けるやつだな。

 運動後の食事は美味いってやつか。

 ……運動という遭難だったけど。

 気づくと、目の前にあった木皿からは、一滴のスープも残っていなかった。

 「ごちさま」

 感謝と共にヴィンチに木皿を返却する。

 「元気そうだな?怪我も治ったか?」

 ヴィンチは混じった白髪を揺らしながら、小さく笑みを浮かべた顔を向けてくる。

 元気?元気に決まっているだろう。飯さえ食えれば、大抵の人間元気に生きていけるのだ。

 …酒があれば尚いいが。

 どれだけ元気になったか見せてやろうと、両足に力を込めて勢いよく身体を立たせる。

 …ッ。

 身体を立たせる事は出来たものの、治ったと思っていた頭が揺れ、急な頭痛に襲われる。

 右足も、少し痛む。

 ちょっと見栄張ったが、ダメだったらしい。

 「おっと…気をつけろ。頭の傷が塞がった訳じゃ無いんだぞ」

 背後から声が聞こえる。

 …はぁ?

 一瞬驚いて身体のバランスが取れなくなるかと思った。

 いつの間にか音もなく背後に回っていたヴィンチに支えられて、ぶっ倒れる事は回避する。

 鱗に覆われた手の感触が肩に伝わる。

 思ったやりも、暖かい。

 ていうか…何で後ろにいんだこいつ。

 まあ、理由なんて言えば、

 「そのスピードも、魔法か?」

 ヴィンチは、最早見慣れた呆れた視線を向けてくる。

 「ああ、魔法だよ。魔法の事も覚えてねぇのか?」

 魔法か…羨ましいなおい。

 覚えてるだ?

 まずまず魔法なんて知らんわ。

 「覚えてる覚えてないじゃ無くてな。俺が住んでた所には、元々魔法なんて無いんだよ」

 ヴィンチは今度は視線さえ向けずに、部屋の奥へと入っていく。

 「はいはい。魔法ぐらい後で思い出させてやるから。今は黙って休んどけ」

 ヴィンチは皿を片したのか、手ぶらで奥から戻ってくると、俺に肩を貸して立たせ、そのまま奥の部屋に向かって歩き出した。

 「何処に行くんだ?」

 「寝室だよ。馬鹿タレが。怪我人は寝てろ」

 ヴィンチに連れられて向かった先は、大きな窓に、簡素なベットと小さな棚が置かれただけの生活感の無い部屋だった。

 …うおっ。

 何か思い浮かぶ前に、ヴィンチに身体を掴まれて、ベットの上に投げられる。

 「寝てろ」

 ヴィンチはそう言うと、足早に扉を閉めて部屋を出て行った。

 …はぁ。

 ヴィンチに言われるままに、ベットの毛布を被り、なんと無しに窓の外に目線を向ける。

 固いな…。

 「やっぱりここ…異世界なんだな」

 寝て起きたら目が覚めたら家、何て事は無いんだろうな。

 …いてぇ。

 後頭部を触ってみると、傷に痛みを感じて、直ぐに手を離す。

 時刻は夕方になっていたのか、窓の外から夕陽が差し始めていた。

 眩しさを感じて、寝返りを打って窓から目を逸らすと、棚の上にカミカゼがちょこんと置かれていた。

 鞘を撫でてみたが、手に土臭い匂いが付いただけだった。

 最初からあったか?これ?

 いや…最初無かったと思うんだが。

 部屋に誰も入って来ていないのにカミカゼが置かれているという可笑しな現象に恐怖しながら、ふと側に置かれた厚みのある一冊の本に気がつく。

 「オリエルト魔術教本…初心者向け…ね」

 表紙には、魔法使いの様な人物と、ドラゴンの様な生物が描かれている。

 あのジジイも意外と気が利くな。

 ていうか…いつ入りやがった。

 本を手に取ってページを開けようと思ったが、直ぐに表紙を捲る手を止めた。

 読んでみたい。

 そんな気持ちはあった。

 ただ、

 今は寝よう。

 少し…疲れた。

 強烈な睡魔に襲われて、布団を頭から被り、固いベットの中で目を瞑った。



 木造の少し歪んだ柱と天井が目に入る。

 「知らない天じょ………辞めよ」

 やっぱり言うのは辞めた。

 これを言ってしまうと、俺が異世界にいる事を認めてしまう気がする。

 まあ…知らない天井だな〜。

 夢じゃあ…無いな。

 直ぐ横の棚には、相も変わらずなカミカゼが鎮座している。

 現実味のある夢を見ている気分だ。

 身体を起こそうとすると、思ったよりも身体が軽い。

 怪我の痛みや筋肉痛、固いベットの弊害で身体でも痛めているんじゃ無いかと思っていたが、意外な事に身体が軽い。

 何なら、平時よりも身体が軽いんじゃ無いだろうか。

 後頭部に痛みがあまり無い事に違和感を感じて手を回してみると、昨日あった筈の怪我が嘘の様に消えている。

 何だ…これ?

 「起きたか?」

 不思議に思い、何度も後頭部を触り直していると、部屋の扉がゆっくりと開き、昨日脱いだままになっていた服を抱えたヴィンチが入って来た。

 服は丁寧に畳まれている。

 見た目の割には気が利くんだよな…こいつ。

 ヴィンチから服を受け取りながら、ヴィンチの見た目をもう一度再確認する。

 後ろに流された黒い短髪の髪に白髪が幾つか混じり、顔は顔立ちの整っていい歳食った上司の顔、所々に鱗みたいなもんが生えている、服装は民族衣装の様な物を羽織っている。

 これが…イケおじってやつか。

 うん。つくづくファンタジーだな。

 「おい…ジロジロ見んな。気持ちわりい、とっとと着替えろ」

 …バレた。

 流石にじっくり見過ぎたか。

 早く着替えよう。

 ヴィンチに急かされ、少しだけ着替の手を早める。

 「着替え終わったら、リビングに来い。右に曲がって直ぐの扉だ」

 着替えが遅かったからか、ヴィンチは先に部屋を出て行った。

 ちょっとぐらい待てよ。

 ……観察してた俺が悪いか。

 そりゃ嫌よな…半裸の男がジロジロ身体観察してたら。

 手早く身支度を整え、側にあったカミカゼを片手で掴り、扉を開けヴィンチの言うリビングの方に向かう。

 尻のポケットに入れていたキノコはまだあるのかと手を回してみたが、ライターと共に当然の様にキノコは姿を消していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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