第3話
6 箱の中
翌朝、彼が部屋から出てくると朝食はすでに食卓に並べられていた。
「おはよう。」と彼が言うと、割烹着姿になっている彼女は「おはようございます。」と言ってから続けた。
「昨晩はよく眠れましたか?」
「おかげさまで。実際床に入ってから記憶がない。相当俺も疲れていたんだろう。」
「それはそうでしょう。お腹はすいてますか?」
そういう彼女の顔は昨日よりいっそうやつれていた。寝れなかったのだな、と彼は思った。
「食べれる。いただくよ。」
「それはよかった。昔の献立を思い出しながら作りました。よかったらご賞味ください。」
彼はいただきますというと彼女の料理を食べていった。その様子に安心したのか彼女も席について食べ始める。
「どうですか?」
彼女が恐る恐る聞いた。
「猫だよ。」彼が言った。
「…ねこですか?」
「動物の方の猫だ。シュレーディンガーの猫。知っているか?箱の中に猫と毒ガスを入れるんだ。で箱を閉じる。どうなると思う?箱の中は見えない。猫は死んでいるか?見るまでは確定できない。かといって生きているとも言い難い。この場合猫は死んでもいるし生きてもいるって言える。」
聞きながら彼女は困惑している。
「何の話か分からないです。」
彼はそのまま続ける。
「この村の話だ。この村は大きな箱だ。俺たちは猫だな。死んでもいるし、生きてもいる。それを決めるのは誰だ?猫を観測した者だな。蓋を開けた者。」
「私も、あなたも生と死の隙間にいると?」
「俺はそうだがお前は違う。お前は死んでいる。俺が観測した。現実の世界で、だ。それを認めろ。昔の献立を再現しただって?生きているつもりか。」
彼女は黙って聞いている。
「俺は今、実際困っている。俺を観測するものがいない。その場合どうなる。俺の処遇を決定するのは第三者だ。俺が現実世界でいる意義が揺らいでいる。原因はお前だ。お前が俺をここに呼んだ。この世界に俺がいる意義をお前が作り出したんだ。結果俺は捕らわれている。」
「私にどうしろと言うんですか。」
「どうもしなくていい。お前は存在しない。存在しないものに俺が観測できるはずはない。俺はこのまま村を出る。普通に出れるさ。俺が現実に戻ろうとしている。そこに意義があるんだ。俺はもしかしたら、お前に会いたかったのかもしれない。いや、実際会いたかったんだな。一緒にまた、ツーリングをしたかったんだ。お前が悪いわけじゃない。俺の甘えがこの状況を生んだんだ。お前は俺の甘さに便乗したに過ぎない。」
黙って聞いていた彼女だったがついには泣きだしていた。
だが彼は喋るのを止めない。ここで止まると、永遠にここで時が止まる気がしたから。
「俺は戻る。楽しかったよ。いろいろ思い出せた。大切なことを忘れていた。味噌汁、おいしかったよ。相変わらず野菜の皮まで料理に入れるし、出汁に使った昆布まで料理に入れるし。だが次はもう少し豪華にしてくれ。」
「そう言ってお前は帰ってきたのか」
バーのマスターはカウンターに座る男を呆れたといった顔で見つめた。
「彼女が可哀想だ。もう一回行って謝ってきてやれ。」とマスター。
「もう一回俺が行ったら今度こそ死ぬぜ。上客が減っていいのか?」
そう言いながら男はカティサークの炭酸割りをぐいと飲んだ。
「上客だ?いうに事欠いてだな。それでカティサークかよ。感傷的だな。」
「こいつは俺の家内が大好きなお酒だったんだ。安い酒が好きな女だったな。」
「お前にピッタリじゃないか。だが安い酒でも、飲んでもらえるだけ儲けになる。やっぱりもう一度行くのはやめろ。」
男は声を上げて笑った。
「行かないさ。あいつにはあいつの。俺には俺の世界がある。それにだ、もう一度会えるさ、そのうちだがな。ボトルキープしてあるんだ。そういえば瓶に名前を書いてもらうのを忘れたな。」
男はグラスを空にすると愛おしそうに空のグラスを眺めてからカウンターに置いた。
「シリアスだな。向いてない。同じのにするか?」
「いや、ボンベイサファイアにする。ロックで頼む。マスターも付き合えよ。」
「そうだな。俺もいただこう。」
マスターはそういうと入り口まで行ってドアを開けて戻ってきた。
それからグラス2つにロックでボンベイサファイアを注ぐ。
「closeにしなくても誰も来やしない。」と男は笑った。
そうして二人でグラスを掲げる。マスターが目くばせをすると男は言った。
出会いに。
7 とあるバーの1日
俺がバーのマスターを始めてから、今までいろんな客がきた。
数えるほどしかいなかったがな。その中でも特に面白いやつっていったら。あいつだろう。
生と死の交わる世界に行った男だ。信じられないか?
そうだな、もしかしたらただの妄想癖かもしれないな。
あいつはあの事件の後もバイクでいろいろ走ってた、毎日だぜ。
暇人に金を持たせるとろくなことにはならない。その典型だな。
小説を書くって言ってたのは、気のせいだったんだろう。
旅の思い出をよく俺に聞かせてくれたよ。
そっちの話はわりかしどうでもよかったけど金を落としてくれるのはよかったな。
買ったバイクが相当よかったらしい。
ディーラーのことを褒めてたな。
でもあれからバイクを買った店に行っても会えないから、この店に来た時にでも連絡先でも聞いておいてくれってやつの名刺を置いていったな。
きっと上客になるからって。
そう言ってた次の日だったよ。
なんていったっけ?
根子村か。
あいつがそこから帰ってきて2週間後くらいだったかな。
交通事故で死にやがった。あいつ。
俺は知ったのはだいぶ先だったけどな。店に顔を見せないと思ったら、だ。
呼ばれたんだって、俺は思ったね。
それでさ、その時思い出したんだ。預かった名刺をさ。
俺はその名刺をもらった時、特に確認もしないまま戸棚にぶっこんでたんだ。
で、引っ張り出してみてみたらさ。白紙なんだよ、この名刺。
やっぱり妄想癖があったのかもしれないな。あいつ。
マスター閉店した店内で一人コップを磨いていた。
あの日からこの店に来る奴はみんなつまらんとマスターは思った。
磨かれたコップは照明の明かりできらきらと輝く。
そういえば、あのディーラーも飲んでいたな。カティサークを。
完
根子村 な。 @plcplrr
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