第4話

昼休みのチャイムが鳴り、教室は一気に賑やかさを取り戻した。グループでお弁当を広げる女子たち、次の授業の予習に勤しむ男子、スマホゲームに熱中する集団。そんな喧騒をBGMに、僕は窓際の一番後ろ、いつもの指定席で、タブレットの画面に映し出されたアストラル・アリーナの複雑な戦術マップとにらめっこしていた。


「翔太、また分析してるの? 少しは休憩したら? 頭、オーバーヒートしちゃうわよ」 手首のスマートウォッチから、ミオ姉の心配そうな声が飛んでくる。彼女の青い鳥ホログラムが、僕のタブレットの縁にちょこんと止まって、僕の顔を覗き込んでいる。


「大丈夫だって。これは休憩みたいなものだよ。Kokemusuiwaの動きを見てると、なんだか頭の中がクリアになるんだ。まるで、難解な数学の証明問題を解いている時みたいに」


「はいはい、そういうことにしておきましょうねー」ミオ姉は呆れたようにため息をついた。「でも、あんまり根を詰めすぎると、本当に倒れちゃうわよ? ただでさえ、最近ちょっと寝不足気味なんだから」


確かに、ここ数日、僕はアストラル・アリーナとKokemusuiwaのことで頭がいっぱいで、夜もなかなか寝付けない日が続いていた。あのファンコミュニティ「星影のアストライア」で見つけた、「MossStone」というユーザーからの短い返信も、なぜかずっと心の片隅に引っかかっている。


そんなことを考えていると、ふと、教室の入り口から入ってきた一人の女子生徒の姿が、僕の視界に飛び込んできた。


藤堂結月。


クラスメイトだけど、ほとんど話したことがない、ミステリアスな女の子。いつも静かで、どこか影があって、まるで自分だけの世界に閉じこもっているみたいに見える。


でも、今日の彼女は、僕の目を釘付けにした。 いや、彼女自身が変わったわけじゃない。変わったのは、僕の彼女を見る「目」の方だ。


彼女が自分の席に向かって歩いてくる。その時、僕は気づいた。彼女の白いブラウスの胸元で、小さなアクセサリーが、午後の日差しを受けてキラリと光っているのを。


それは、銀色の、繊細な細工が施されたピンバッジ。モチーフは、間違いない。「苔桃」だ。ファンコミュニティで、熱心なファンたちが「Kokemusuiwa選手が最近よく身に着けている謎のアクセサリー!」と大騒ぎしていた、あの花。


僕の頭の中で、雷が落ちたような衝撃が走った。

Kokemusuiwa。苔むす岩。そして、苔桃。 ファンコミュニティでのハンドルネーム「MossStone」。苔むした石。


まさか、そんな。 でも、これだけの偶然が重なるなんて、あり得るだろうか?


僕の心臓が、ドクン、ドクンと警鐘のように激しく鳴り始めた。

気づけば、僕は立ち上がっていた。自分でも信じられないくらい、衝動的に。そして、まるで何かに突き動かされるように、彼女の名前を呼んでいた。


「あの、藤堂さん!」


僕の、少し上擦った声に、結月は驚いたように足を止め、ゆっくりとこちらを振り向いた。その大きな、吸い込まれそうなほど深い色の瞳が、僕の姿を捉え、戸惑いの色を浮かべて小さく揺れる。


「その、胸元のピンバッジ。もしかして、それ、『苔桃』だよね?」 僕は、早鐘を打つ心臓を必死で抑えながら、言葉を続けた。声が震えないように、細心の注意を払って。


「苔桃の花言葉って、たしか『反抗心』と、『くじけない心』。そして、もう一つ、『小さな甘え』っていうのも、あったはずだ。すごいな、って思って。君に、すごく似合ってる」

最後の言葉は、ほとんど無意識のうちに口をついて出ていた。


僕の言葉を聞いた瞬間、結月の表情が、まるで能面のように固まった。彼女の肩が、微かに震えているのが分かる。その大きな瞳には、明らかに動揺の色が浮かんでいる。彼女は何かを言い返そうとして、しかし言葉が出てこないかのように、小さく唇を開閉させた。


そして、その時。彼女が装着しているシンプルな黒縁のスマートメガネのフレームが、一瞬だけ、鋭い赤色の光を放ったのを、僕は確かに見た。あれは、AIバディ、カブトからの警告か?


「別に。これは、ただのアンティークショップで見つけた、古い飾りよ」

ようやく絞り出したような結月の声は、震えていた。そして、それは明らかに嘘だった。


「それに、花言葉なんて、私、よく知らないから」


そう早口に言い捨てると、彼女は僕から逃げるように、くるりと背を向け、足早に自分の席へと向かってしまった。その背中は、どこか追い詰められた小動物のように、小さく見えた。


僕は、しばらくその場に立ち尽くしていた。


ミオ姉が、心配そうに僕の顔を覗き込む。


「翔太、大丈夫? なんだか、藤堂さん、すごく動揺してたみたいだけど。もしかして、本当に?」


「うん。僕も、そう思う」僕は、確信に近い感情と共に頷いた。「藤堂結月が、Kokemusuiwaだ。そして、たぶん、『MossStone』も彼女なんだ」


僕の胸の中で、興奮と、戸惑いと、そして、彼女のあの怯えたような瞳への強い共感が、ごちゃ混ぜになって渦巻いていた。


※※※


放課後。


僕は、まるで何かに引き寄せられるように、図書室へと足を運んでいた。昼休みの出来事が、ずっと頭から離れなかったのだ。藤堂結月=Kokemusuiwa=MossStone。この衝撃的な仮説を、どうしても確かめたかった。そして、もしそれが真実なら、彼女が抱える秘密と孤独に、少しでも触れてみたかった。


図書室の一番奥、窓際の席。僕のお気に入りの場所に、彼女はいた。


分厚い古典SF小説に顔を埋めるようにして、静かに読書をしている。その横顔は、相変わらずミステリアスで、近寄りがたい雰囲気を漂わせている。でも、僕にはもう、彼女がただの物静かなクラスメイトには見えなかった。


意を決して、僕は彼女の隣の席に、そっと腰を下ろした。


彼女は、僕の気配に気づき、驚いたように顔を上げた。その大きな瞳が、僕の姿を捉え、一瞬、警戒の色を浮かべる。


「あの、藤堂さん」僕は、できるだけ穏やかな声で話しかけた。「昼休みは、ごめん。急に変なこと言って。君を困らせるつもりはなかったんだ」


彼女は、何も言わずに、ただ僕の顔を見つめている。その瞳の奥の感情は、読み取れない。


「でも、どうしても、気になってしまって。君が身に着けていた、あの苔桃のピンバッジのこととか、あるいは、ファンコミュニティでの、『MossStone』っていう名前のこととか」

僕がそこまで言うと、結月の表情が、再び凍りついた。彼女は、慌てて視線を逸らし、膝の上の本へと目を落とす。その指先が、微かに震えているのが見えた。


「偶然よ。全部、ただの偶然。あなたには、関係ないことだから、放っておいて」


彼女の声は、拒絶するような響きを帯びていたけれど、その奥には、必死で自分の秘密を守ろうとする、悲痛な叫びのようなものが感じられた。


僕は、畳み掛けるように追求するのではなく、少しだけ話題を変えてみることにした。


「そっか。ごめん。でも、君が読んでるその本、僕も大好きなんだ。『星を継ぐもの』だろ? AIと人間の未来について、すごく深く考えさせられる名作だよね」


僕の言葉に、結月は、少しだけ驚いたように顔を上げた。


「高城くんも、この本、好きなの?」


「うん。特に、主人公と対話するAIの描き方が、すごく印象的で。単なる機械じゃなくて、まるで哲学者のような深みを持っている。AIって、もしかしたら、僕たちが思っている以上に、複雑な内面を持っているのかもしれないなって、この本を読むたびに思うんだ」


「私も、そう思う。AIはただの道具じゃない。ちゃんと、心を持って、私たちと向き合ってくれる存在になれるはずだって、信じたいから」

彼女の声には、確かな熱が込められていた。それは、きっと、彼女自身のAIバディであるカブトへの、深い想いから来る言葉なのだろう。


僕たちは、しばらくの間、そのSF小説について、あるいはAIという存在について、ぽつりぽつりと、しかし以前よりはずっと自然に、言葉を交わした。彼女は、僕の分析的な視点や、AIへの深い知識に、時折、感心したような表情を見せ、僕もまた、彼女の持つ独特の感性や、AIへの真っ直ぐな想いに、心を惹かれていった。


会話の途中で、彼女の耳元で小さく揺れる、青い花のイヤリングに目が留まった。


「そのイヤリング、『忘れな草』だね。花言葉は、『私を忘れないで』、そして、『真実の友情』」


僕がそう言うと、彼女はハッとしたようにイヤリングに触れ、そして、ほんの少しだけ、頬を赤らめた。


「高城くんは、花言葉にも詳しいのね」


「いや、ミオ姉の受け売りだって。でも、素敵な花言葉だと思う。特に、『真実の友情』っていうのは」

僕がそこまで言いかけると、彼女は、何かを振り払うかのように、小さく首を振った。


「友情なんて、私には縁のないものだから」


その声は、あまりにも寂しくて、僕の胸を締め付けた。


放課後の図書室に、西日の金色の光が差し込み、僕たちの間に落ちる影を長く伸ばしている。


僕は、彼女の孤独に、ほんの少しだけ触れることができたような気がした。そして、その孤独を、少しでも和らげてあげたいと、強く思った。


「そんなことないよ、藤堂さん」僕は、できるだけ優しい声で言った。「君は、一人じゃない。少なくとも、僕がいる。君の話を、いつでも聞く準備はできてるから」


僕の言葉に、彼女は、ゆっくりと顔を上げた。その大きな瞳には、まだ戸惑いの色が浮かんでいたけれど、その奥には、確かに、ほんのわずかな、しかし温かい光が灯り始めているように見えた。


それは、僕と彼女の間に生まれた、新しい関係性の、小さな、しかし確かな始まりの予感を、静かに告げていた。

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