(9)夜行バス
結局、姉のアズサが東京に行きたいと言い出した翌々週の金曜日の夜、ヨウスケ、姉、父の三人は、大津の、正確に言えばJR南草津駅の高速バス乗り場に向かうことになった。夜行バスで新宿に朝到着し、その日の夜の高速バスでまた大津に戻る0泊三日の強行軍だ。
大津から東京はそれほど遠くはないので、高速バスではおよそ七時間で着く。ヨウスケたちの乗るバスは夜の十一時に出発するので、新宿には翌朝の六時には到着してしまう。六時では、まだ新大久保のKポップグッズ店や焼き肉店が店を開けるまでは四、五時間はかかるだろう。若者だけだったらネットカフェにでも入ればいいだろうが、ヨウスケと姉はまだ中高生、父もネットカフェには縁遠かったので、時間をどうつぶすかを考えなければいけない。
父は、このぐらいの時間があったら、姉のアズサを特急あずさに乗せてやることができるとひらめいた。朝六時に新宿バスターミナルに到着すれば、六時半の特急あずさに乗れる。そうすれば、単純に往復するのではなく、大月から出ている私鉄経由で吉田あたりまで行って、山梨側からの富士山を間近に見ることができる。アズサもヨウスケも、新幹線で通り過ぎる静岡側からの富士山しか見たことがなかった。父自身も、甲府あたりからの富士山は見たことがあるが、富士五湖近辺からの富士山は見たことがない。
父は、家を出発する前に、アズサとヨウスケに、午前中の予定を告げた。姉のアズサは「えー、そんなんめんどい」と一旦は嫌がったが、朝六時に新宿についても、親子三人で何をするでもないことが分かると、特急あずさに乗れること自体はまんざらでもなさそうであった。ヨウスケのほうは、初めて乗る特急あずさや私鉄に興味津々で、新大久保の焼肉と同じぐらい興味を持っているようだった。
南草津駅は、ヨウスケの家から車で十五分ほどのところにある。バスの時間は午後十一時なので、この日は母親が三人を乗せて車で南草津駅まで送って行った。母は三人を下ろすと、
「気ぃ付けてな」
と言い残して去っていった。ヨウスケはすでに自分のスマートホンで明日の天気を見ている。
「明日は東京は晴れやて」
「そうか、ええぞ。富士山もよう見えるやろう」
と、父も嬉しそうである。姉のアズサは、友人にSNSで買い物のことづけをやりとしている。仲のいい学校の友達に「新大久保に行く」と言ったら、Kポップ関連のグッズの購入を頼まれたのだという。まるで海外旅行でお土産を頼まれたようだが、本人は嬉しそうにやり取りを続けていた。
十一時前に乗り場にやって来たバスは、横三列シートの豪華版であった。ヨウスケは左の窓側席に座った。時間は早いが、うまく行けば高速道路から富士山が見えるのではないかと考えたからである。姉は通路側に座りたいと言っていたが、三列シートのバスならどの席も通路に面しているので、結局姉が右の窓側、父が真中の席に座ることになった。
バスは南草津駅を定刻に発車した。シートベルトやトイレの案内などがあり、しばらく下道の国道を走っているが、もう夜の十一時を過ぎているので車内は静かである。ヨウスケが姉の方を見ると、やはりしきりにスマートホンを見ているのが見える。父はシートのリクライニングを大きく倒して目をつぶっている。金曜日の今日も一日会社で仕事をしていたので、すでに寝ているのかもしれない。
ヨウスケは左側の窓から夜の街を見ていたが、自宅の周囲と同じような、住宅や商店、小さな事務所などが並び、それぞれの窓に明かりが灯っているという、全く意外性のない景色に、安心と退屈が交じったような気持ちでそれらが後ろに流れるのを見送っていた。
ほどなく、バスは高速道路に入り、俄然スピードを上げたが、今度は山や田んぼなど、さらに暗いところを走り出すので、ヨウスケから見えるものは、ガードレールとオレンジ色の照明だけになってしまった。ふと右側の姉を見ると、姉もスマートホンを消しているらしい。ヨウスケも目をつぶると、いつのまにか眠りに落ちた。
ヨウスケが目を覚ますと、ちょうど時刻は午前四時ごろだった。ヨウスケは出発前に、このバスが富士山のそばを通る時刻を計算していた。その計算通り、今富士山がヨウスケのバスの真横にある。季節は夏至に近いので、すでにあたりは薄明るいが、この時期は太陽が北東側から上るので、ヨウスケのバスからは富士山が明るい空をバックにややシルエット気味に見える。ヨウスケは早速スマートホンを取り出して、何枚か写真を撮ってみた。取った写真をその場で映してみると、なかなか良い雰囲気に写っている。
「焼肉とおなじぐらいおいしいやん」
と、自分の撮った写真に満足していた。この後、東京に着いたらその足で山梨側から富士山を見ることになっている。一日で静岡側と山梨側の富士山が見えるというのはなかなか得難い機会だろう。ヨウスケは、先日、京都の疏水から大阪湾まで流れる想像をしていたが、今度は富士山の頂上から川に出て海まで出る想像をしようと思った。
とはいえ、富士山から下るなら、静岡に出ようか、山梨に出ようか、どちらにしよう、とどうでもよいようなことを考え始め、静岡なら海だけど、山梨なら富士五湖に出るのかな?などと考えているうちに、もう一度眠ってしまい、そのままバスは新宿の終点に到着した。
「起きや」という姉の声で目を覚ますと、すでにバスは新宿のバスターミナルに到着していた。バスの車内の時計を見ると、定刻の午前六時だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます