(3)疏水分線

 鉄道が地上を走っていたころは、府道と線路が隣り合ってこの区間を越えていたが、今は線路の跡地も含めて、幅の広い歩道のある幹線道路になっている。ヨウスケは、くねくねと曲がっている上り坂の府道を数分歩いてみた。そこではっと気づく。

 

 「あ、そうか、晴れた日に来てもダメやん」

 

 雨の日の水墨画のイメージを思い出して電車を降りたのに、今日は穏やかな天候だ。薄い雲が空を覆い、薄日が差している程度で、暑くもなく寒くもなく、いたって穏やかな日である。今日に限って言えば、いくら峠道でも、水墨画のような幽玄さなど微塵もない。

 

 ヨウスケは、毎度自分の「思い立ったらすぐやってしまう」性格に、心の中で軽くため息をついた。

 

 「またやってしもうた」

 

 もう、峠の頂点が前方に見えそうなところまできて、自分の選択の意味のなさに気付くと、ヨウスケは束の間その地点の歩道に立ち止まって、行きかう自動車を眺めていた。上り坂方向の車は、乗用車はスムーズに走っているが、トラックはエンジンの音がうるさい。あまり長くいるようなところでもない、とヨウスケは今上ってきた坂をまた蹴上方向に戻り始めた。

 

 少し進んでいくと、坂の上から蹴上方面を見下ろすことができる。道の両側には、浄水場や観光船の乗り場、日本最初の水力発電所で、一部現役という蹴上発電所などがあるが、ヨウスケはいつもこのあたりは地下鉄区間で通り過ぎるだけなので、ほとんど行ったことがない。誰かに案内してもらわないと、観光巡りも無理だろう。そもそもヨウスケは京都府民ではなく滋賀県民である。

 

 ところが、ヨウスケは先ほど降りた蹴上の駅に近づくと、唐突にもう一つ、父の別の言葉を思い出した。「蹴上には、疏水の脇をギリギリに歩けるところがある。確か、疏水が蹴上からどこかへ分岐したところやったと思う。学生のころ一度歩いたことがあるが、めちゃめちゃ速い流れやった。柵もなくて、もし転んで水に落ちたら一発アウトやろう」

 

 ヨウスケは、一度何かを思い起こすと、それを自分なりに解決しないと気が済まないところがある。蹴上で降りた時も、父の言葉が思い浮かんだ途端に途中下車をしてしまった。そして、なにもない穏やかな府道を数分歩いて、元の駅のそばまで来たのだった。

 

 そのまま蹴上駅に行って、もう一度同方向の電車に乗れば、多少遅くなっても初めの計画通りに京阪三条に到着して、アニメグッズを漁ることができたはずである。ところがヨウスケの頭の中は、もう、父の「疏水の脇をギリギリに」という言葉でいっぱいになっていた。自分のスマートホンを再び取り出すと、そもそもそんな危なっかしいところがあるのか、と検索する。

 

 「京都 疏水 ギリギリ 歩ける」という言葉で検索をするが、なかなかそれらしい項目が出てこない、画像表示などすると、ようやくそれらしい写真が見つかった。それからたどると、どうやら、父が「疏水が分岐した」と言っていた、「疏水分線」という水路らしい。今自分がいる場所からだと、府道を渡って、疏水の公園のような、蹴上発電所の近くを分け入っていけば、ごく近いようだ。ヨウスケは府道の横断歩道のある場所まで一旦下って道路を渡り、古い煉瓦巻きのトンネルをくぐった。有名なインクラインの跡を進み、遊歩道伝いに蹴上発電所の取水口の上を渡ると、目指す「疏水分線」にたどり着いた。

 

 ヨウスケは心の中で軽く「う」とうめいた。父が言った通り、幅が一メートル半、深さが二メートルぐらいの、コンクリートで固められた凹の字型の水路に、この日もかなりなみなみとした豊かな水流が相当な速さで流れている。水の速さはヨウスケが走っても追いつけないように見えた。

 

 そして、その両側に、幅一メートルぐらいの「歩道」が付いている。左側は崖下、右側は崖で壁面のようになっている。左側には崖から落ちないように柵があるのだが、両側の歩道とも、水路側には柵も何もない。父親が言うように、足が滑って水に落ちたらひとたまりもないだろう。平日の昼間なので、観光客らしい人影も見えるが、みな、「至極当然」のような顔をして散策している。

 

 ヨウスケは、もう状況を見たから十分だ、と引き返そうかと思ったのだが、後ろから別の観光客が歩いてきている。ヨウスケが引き返すと、この狭い、そして柵も何もない「遊歩道」の上で、すれ違わなければならない。一瞬、バランスを崩して疏水に落ちるようなイメージが浮かんだヨウスケは、引き返さずに前に歩いていくことにした。

 

 とはいえ、この遊歩道を歩くのは結構な怖さがある。ヨウスケは、幅の広い左側を歩いていたが、崖下への転落防止用の柵を時々触りながら、健康な中学生にしてはずいぶんゆっくりとした歩き方でこわごわと足を進めた。

 

 本人はずいぶん長い時間に感じたが、二、三分も歩くと歩道は行き止まりとなり、疏水の渡り板を渡って右側の階段を降りると、南禅寺の水路閣に行けるようになっていた。南禅寺の水路閣というのは、琵琶湖疏水の関連構築物としては非常に有名だが、ヨウスケは小学校の社会科見学で来たのを覚えていた程度で、「ああ、これはここだったか」と思うぐらいの感想しか出なかった。

 

 南禅寺はさすがに京都市内でも有名な観光スポットなので、水路閣の回りには、特に外国人観光客の姿も多かった。ヨウスケが歩いた水路は、西や北に分岐して、いくつかの経路を取って流れていたが、ヨウスケにはまるで関心が無く、また自分のスマートホンを取り出して、三条方面のルートを確認すると、足早に路地を歩いて三条に向かいはじめた。

 

 三条には十五分ほど歩けば到着し、結局、予定よりも一時間ほど遅くはなったが、最初の目的のアニメグッズ店も予定通り訪れることができた。ヨウスケにとっては毎度のことだが、何を買いたい、という希望もあまりなく、ふらっとアニメグッズ店を訪れるだけなので、この日はあまり食指が動くものもなかった。ヨウスケは、「なんか今日は疲れたな。はよ帰ろう」と、結局、すぐに京阪三条駅に移動して、行きと同じ京阪電車で唐橋前に着き、夕方には家に着いた。

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