第3章 夜明けの香り、境界の名を知る


夜が明けきる前、焙煎機の残響だけが店の奥に残っていた。

焦げ茶の香りとともに、風がわずかに動く。


「……姉さん。」


青年が静かに声をかけた。

ローブの裾が焦げ跡を引きずりながら揺れる。

旅人の女──彼の姉は、うっすらと微笑んだ。


「無事でよかった。ずっと、あの戦の夜から……探してた。」


「そう。」


それだけ言って、彼女は窓の外に視線を向けた。

東の空が、まだ灰色の中でかすかに青く光り始めている。

夜と朝が混じる時間。

それは“境界”が最も薄くなるときだと、マスターが言っていた。


「再会は美しいが、厄介でもある。」

マスターの低い声が響く。

「喫茶美月は、境界そのものの上に建っている。放っておくと、呼ばれちまう。」


「呼ばれる……?」


「向こうの存在にな。」


青年が目を見開く。

「姉を、元に戻せないんですか!?」


「戻るかどうかは本人次第だ。」


「そんな……!」


「境界を越えた者は、“名”を半分置いてくる。

 取り戻すには、もう半分を見つけなきゃならねぇ。」


沈黙。

焙煎機の軋みが、わずかに空気を裂いた。


「……私の名前、覚えてる?」

姉が弟に問いかける。


「当たり前だ。エリス・カールトンだろ。」


「その名前、半分だけ。」


「え……?」


彼女の瞳がゆらりと光る。

淡い金色の光が、虹のように瞳孔の奥で回った。


「“エリス”は、まだこちらにある。

 けれど“カールトン”は、向こう側に置いてきた。」


青年の声が震える。

「そんなの……どうすれば取り戻せるんだよ。」


「“記憶”を焙るの。」


「記憶を……焙る?」


マスターがゆっくりと頷いた。

「この焙煎機は、ただの機械じゃねぇ。“追憶炉(アーカ・ロースター)”だ。」


「そんなものが……。」


「古代評議会の遺産だ。

 焙煎の火で香りを立てると、記憶の断片を呼び起こす。

 だが、扱いを間違えば、焼き切れる。」


青年は言葉を失い、姉を見た。

彼女は静かに頷く。

「だから、あなたの手が必要なの。」


「俺の……?」


「家族の音がないと、記憶は戻らない。」


青年の瞳に決意が宿る。

「やる。どうすればいい。」


マスターが腕を組み、店の奥を指さした。

「焙煎炉を起動する。

 だがその前に、この店の“もうひとつの名前”を知っておけ。」


「もうひとつの……?」


「“月香楼(げっこうろう)”。

 この喫茶の本当の名前だ。」


「月香楼……。」


マスターの声が少しだけ柔らかくなる。

「この店は、かつて境界を渡る者たちの“帰り道”だった。

 迷った魂が香りに導かれて戻る、灯の場所。」


「じゃあ姉は、その香りに導かれて……。」


「そういうことだ。」


姉は穏やかに目を閉じる。

「焙煎を始めましょう。」


 


焙煎炉に火が入る。

青い炎が渦を描き、豆が音を立てて弾ける。

パチ、パチ──。

音が心臓の鼓動のように規則的に鳴る。


「香りが……変わっていく。」

青年が小さく呟く。

「甘くて、でも少し苦い。」


「それが“記憶の温度”だ。」

マスターが静かに言った。

「思い出すたび、少し焦げる。けど、それでいい。」


姉の表情が変わる。

淡い光が指先に集まり、炉の中の炎と重なった。

「……見える。戦場の空。

 崩れる塔。

 そして──あなたの叫び。」


弟が目を閉じる。

「姉さん……!」


「戻るための鍵、見つけた。」

彼女は微笑む。

「“歌”。私たちの子守唄。」


マスターが眉を上げる。

「懐かしい手だてだな。」


「この世界ではもう、ほとんど忘れられたけど。」


彼女はゆっくりと唇を開いた。

静かな旋律が、焙煎機の音に混ざって流れ出す。

優しく、淡く、夜を越えるように。


青年も声を重ねた。

震える音が、空気を震わせる。

そして──


パチンッ。


焙煎機が一際大きく弾けた。

炎が白に変わり、店内を照らす。


「っ……!」

私は思わず目を覆った。


光が消えたとき、姉の姿が少しだけ変わっていた。

ローブの縁に刻まれていた古代文字が淡く消え、

代わりに、胸の前に小さなペンダントが光っている。


「名前、戻ったの?」


彼女は微笑んでうなずいた。

「半分だけ。でも、もう迷わない。」


「姉さん……!」


抱き合う二人の間で、焙煎の香りがやさしく漂った。


マスターは静かに背を向ける。

「これで一区切りだ。けど、まだ始まりでもある。」


「始まり……?」


「境界は広がってる。おそらく、他の場所でも歪みが出てる。」


「それって──」


「喫茶美月だけじゃ支えきれねぇ。

 誰かが“渡り守(わたりもり)”として、他の境界を見て回る必要がある。」


私は息をのむ。

「それって、もしかして──」


「お前の役目だ。」


「えっ!?」


マスターはにやりと笑う。

「半年も見てりゃわかる。

 豆の音、湯の温度、客の心。

 どれも、ちゃんと聞いてる。」


「聞いてるって……そんな大げさな……!」


「お前の耳は、“境界の息”を聞ける。」


「境界の息……。」


「その感覚を信じろ。

 これから現れる渡航者を、迎える役をやれ。」


「迎える……。」


青年が私を見た。

「姉さんが戻れたのも、あなたが淹れた珈琲のおかげです。」


「え?」


「護られてる感じがした。あの言葉は本当だった。」


私は言葉を失う。

胸の奥がじんわり熱くなる。


マスターが肩を叩く。

「まずは、この街の北。境界の灯が弱ってる場所がある。そこへ行け。」


「え、いきなり……!?」


「まぁ、コーヒー豆くらいは持ってけ。」


笑いながら、焙煎したばかりの小袋を渡してくる。

その香りは、確かに昨日より少し強く、そしてやさしかった。


姉弟は店を出て行く。

扉のベルが二度鳴り、朝の光が差し込んだ。


私は深く息を吸った。

豆の香り。火のぬくもり。心臓の鼓動。


──喫茶美月。

いや、“月香楼”。


今日もまた、誰かの帰り道になるのかもしれない。


「……行ってきます。」


焙煎機が、ゴウン……と静かに応えた。

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