ぼくの脳は超合理的

はいの あすか

第1話

「カクセイゴ・スイゴウ……?」

「はい、覚醒後推合です。睡眠心理学の分野で発見された現象なのですが……。先生はご存知ないですか?」

 

 渡辺直樹は、昼休みの職員室で説教を受けている高校生とは思えないほど、堂々としていた。

 

「知らない。その睡眠ナントカが、あなたが数学の期末テストで赤点だった事と、どう関係あるというの?」

 

 教師の神田阿佐子は、この聡明であるのは間違いないのにテストに本気を出さない教え子に手を焼いていた。赤点の生徒が出ると教頭がうるさい。だから、試験前にみっちりと補習を施したはずだった。

 

「深い関係があるんですよ。

 そうか、あれはまだ日本では未発表の論文だったか……」

 

 直樹は顎に手を当てて、ひとり呟く。

 

「論文だか、微分だか、積分だか知らないけど、一体どうするつもり?

 復習してなかったわけ? そろそろ志望校決めなきゃいけないの分かってる?」

「問題ありませんよ。たまたま覚醒後推合が起こってしまっただけですから」

「だから、それ何なのよ」

 

 思わず返した神田の問いに、直樹は得意そうな顔をした。

 

「先生は、自分が眠っている間に起きたことを覚えていますか?」

「眠ってるんだから、覚えてるはずないじゃない」

「なるほど。じゃあ、先生は目覚めた瞬間、

 『眠りについた時には空が暗かったのに、今は眩しいほど明るい! それに約七時間が経過している! 一体寝ている間に何が起きたんだ!?』

 と毎朝びっくり仰天するわけですね」

「はあ? 痴呆じゃないんだから。年増だからって馬鹿にしてんの?」

 

 イラつく神田を、周りの教員がチラッと見るのを感じる。直樹は質問には応えずに、

 

「そんなはずない、ということはつまり、先生は『寝ている間に夜が更け、日付が変わり、新しい朝日が昇ったのだ』と、寝ぼけた頭で推測しているわけです。

 それなんです、それが覚醒後推合と呼ばれる脳の働きです」

 

 神田は眉間に皺を寄せて、右手のひらを突き出した。

 

「ちょ、ちょっと待って。ついていけない。

 寝て起きたら朝になってるのなんて、三角関数の証明くらい当然の話よ。……あなたには難題なのかもしれないけど」

「では、この場合を考えてみてください。論理立てて根拠を積み上げる、証明問題と同じですよ。

 先生が夜、その四角い眼鏡を外してベッドに入ります。寝る前に本でも読むかと、ベッド脇の小机から一冊取り出して数ページほど物語の世界に浸ります。

 ……手元の文庫本くらいなら裸眼でも見えますよね? 老眼の視界がどんなもんか、ぼくには分かりませんけど」

 

 やっぱりこいつは私を揶揄っている。神田はデスクを思い切りぶっ叩きたい衝動に駆られたが、最後まで聞いてからにしよう、とグッと堪えた。

 

「それで?」

「すぐに睡魔が襲って、本を閉じて小机の上に置きました。続きはまた明日読もう、と。

 そして翌朝、起きてみると——そこにあるはずの本が、無いではないですか。おかしいな? と思いながらも、寝る直前の記憶なので忘れただけかもしれない。

 ボーッとしたまま歯を磨き、服を着替え、リビングに行くと、なんと、ソファに座る旦那さんが同じ本を手に熟読していた」

 

 そこまで言うと直樹は言葉を止め、反応を待つような間を置いた。まるで直樹がその達者な話術ですり抜けた、高校の推薦入試での面接官のように。

 

「先生だったら、どう思いますか?」

「夫が先に目覚めて、私の枕元の本に気付き、リビングに持って行って読んだ。それしか考えられないでしょう」

「ご名答。素晴らしい!」

 

 直樹のわざとらしく驚きを浮かべた顔! 神田は瞬間的な怒りが沸騰し、頭から腕へ、そして手のひらへ駆け巡った! デスクのマグカップに震えた手がぶつかり、コーヒーをちょっと溢してしまった。幸い、採点済みの答案用紙にはかからず、ホッとしてティッシュで拭き取る。そうして、苛立った心も静める。落ち着け、こんなやつのペースに乗せられるんじゃない。

 一方の直樹は心からの祝福を送るように、大きく拍手していた。周りの教員たちはこの珍奇なやりとりに巻き込まれたくないとばかりに、席を立ち始めた。

 

「私もそろそろ授業の準備をしたいんだけど、いいかしら?」

「待ってください、まだ終わっていません。

 常識的に考えれば、先生がおっしゃった通りの推論になるはずです。ですが、常識とは頭の中だけにあるもの。この現実世界とは関係がないのです。

 覚醒後推合の現象が起こる時というのは、脳が合理的に物事をつなぎ合わせようとした結果、現実的でない推論を導いてしまうんです」

「現実的でない推論……?」

「要は、こういうことです。

 私は寝る前に本を置いた。厳密には、置いたという記憶を持っている。だが朝起きたら本はそこに無かった。そうだ、寝る前の記憶が誤りで、もともと本など読んでいなかったのだ!」

 

 神田は首を傾げた。

 

「信じられないですよね。しかし脳はぼくたちが思うより超合理的なのです。自分勝手に納得してしまうことがあるのです」

「知らなかったわ。で、あなたが酷い成績を取っておきながら厚顔無恥でいられることが、どう正当化されるのよ」

「ぼくの頭にはですね、テストを受ける十時間ほど前までは、溢れんばかりの知識が詰め込まれていました。

 ところが、テストの日の朝、ぼくの親は何を思ったか、ぼくの就寝中に部屋を掃除し、机に置きっぱなしにしていた教科書とノートを通学バッグに放り込んでしまった、ああ、なんと言うことでしょう!」

 

 直樹は両腕をおおげさに動かして訴えた。

 

「だから?」

「だから、ぼくが覚醒した直後、ぼくの超合理的な脳みそは、元々教科書とノートがそこにあった記憶を葬ってしまった。そして、ぼくがそれらと睨めっこして頭に刻みつけたテスト範囲を丸ごと、忘れ去ってしまった。そう、ぼくは被害者なのです!」

「ふうん」

 

 意味不明な宗教勧誘を聞かされているような気分で、神田はこの自信満々な布教者の嘘臭さをどう暴いたものか、と思案した。

 

「……ふうん、って、なんですか」

「じゃあ聞くけど、今回のテストには予告してた範囲外の、ちょっと進んだ単元の問題も出したわよね。あなたはそのうちの一問に正答してた。それはどうして?」

「ああ、あの問題なら高一の範囲の知識を組み合わせれば、最後まで導けましたよ。ぼくの脳は合理的に出来てますからね」

「へえ、テスト勉強してた記憶を丸ごと失ったのに、どこがテスト範囲で、どこが範囲外だったかはキチンと覚えているのね」

「なっ……」

 

 しまった、罠に片足を嵌められた、と気付いた時には表情にあらわれていたが、直樹はどうにか取り繕おうと、

 

「う、疑っているんですか? 後から友だちにテスト範囲を教えてもらったから分かるだけですよ」

「そうなんだ。今回のテストに範囲外のことなんて出題してないけど? その人、本当に友だち?」

 

 直樹は頭が真っ白になった。もう一方の片足まで捕えられて、もはや身動きはできない。しかし、ここまで言い訳を繰り広げておいて、撤回するわけにはいかなかった。

 

「はあ、先生って性格が悪いですね。先生の言うことを生徒が否定できるわけがないでしょう。範囲外の問題があった、とおっしゃったから、ああ、そうだったのか、と思って話を合わせたに過ぎません。犯人が尻尾を出したみたいに得意気な顔をして、慈しむべき生徒を何だと思ってるんですか?」

 

 もうすぐ五限が始まる。神田はもう直樹の嘘を確信していたし、早く終わらせたかった。

 

「いつまでも訳わかんない主張を貫かなくていいから」

「先生、何度も言いますが、覚醒後推合は科学的事実で……」

「ノート」

 

 神田の冷たい右手のひらが直樹に差し出された。

 

「はい?」

「前日までしっかり勉強はしてたんでしょ? そのノートを証拠に持ってくれば良しとするわ」

「……今日は家に置いてきちゃったかなぁー……」

「明日まで待つ。テスト範囲の、教科書と問題集の練習問題を、全部解いた形跡があることが条件よ」

 

 今日中にやれば許してやる、と暗に執行猶予を言い渡していることは直樹にも分かった。

 

「は、はいい!」

「戻ってよい」

 

 直樹は血の気の引いた顔でスタスタと走り去った。神田は深く腰掛けたチェアをくるりと回転させて、ため息をついた。あの馬鹿は、あんな阿呆くさい言い訳が通用すると思っていたのだろうか……。

 

 そこへ教頭が近づいてきて、

 

「神田先生、何かお困りのようですな」

「あっ、教頭先生。お恥ずかしいところを見られました。

 何度言ってもやるべきことをやらない生徒には、呆れてしまいます」

 

 教頭はニッコリと頷いた。

 

「分かります。でも、生徒には優しく寄り添って、ね。

 ところで、神田先生にお願いしていた保護者説明会のプリントは、もう出来ましたかな?」

 

 はっ、と神田の脳の片隅から、たった今まで後回しにされ続けた教頭からの依頼が急浮上した。やばい、と思った時にはこう言っていた。

 

「教頭先生。覚醒後推合、ってご存知ですか……?」

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