第28話 あの世界が恋しくて

俺はアマラギ、28歳。

普通の会社に勤めているごく普通の男だ。


趣味は海に釣りに行く事で、投げ釣りが1番好きだ。

魚を釣ると言うよりも、のんびりとゆっくりと海の流れを見るのが1番の癒しだ。

釣れた魚は必ず持ち帰る。大切な命を頂くのだから、こちらもちゃんと調理して食べる。

まあ、フグとか邪道は流石に食べられないから海に返すけれど。


部屋は1LDKに住んでいる。

狭い我が家だが、都心部に住んでいるので家賃はかなり高い。

ただ、俺の部屋はベッド以外何も置いていないので広く感じる。


俺は所謂、ミニマリストだ。

何もない部屋を見るのが好きだし、物を増やしたくないと言う自分に合っている。

釣りの道具だけはどうしてもあるが、見えない様にクローゼットに仕舞っている。


スーツは基本、2着を交互に着ている。


どうせ人は他人の服など全く注目していない。

それいつも同じ服だね、なんて言う人はいないし、もし言われたとても全く気にならない。

出来る限り荷物は少なく、日常で使う物も最小限にしていたいのだ。


料理は基本的に自分で作る。外食は殆どしない。

野菜やタンパク質を多く摂りたいし、食を疎かにして生きたくない。

ベランダの家庭菜園ではトマトとバジル等の薬草を植えている。

毎日朝起きたらそれらに水を上げ、育っていく姿を見守る。


人はよく俺の暮らしを「丁寧な暮らし」と言う。

自分では普通の暮らしと思っているが、人から見ると十分丁寧らしい。


規則正しく過ごし、部屋は綺麗に。

適度に運動をし、自炊をして食事バランスを保つ。

ただそれだけの暮らしだが、自分ではとても満足している。



会社で持参のお弁当を食べていると、先輩が声をかけてくる。

「それ、自分で作ってるんだろう?」


俺ははい、と言って先輩を見ると、

先輩は甘そうな菓子パンに申し訳程度に野菜ジュースを持っていた。


「野菜ジュース、美味しいですよね。」

俺はそう言って先輩のジュースを指差す。

彼は恥ずかしそうに、

「お前の弁当に比べると、俺の飯やべえよな。一応、野菜ジュース。」と照れながら言った。

そんな様子がおかしくて、笑ってしまう。

今度お弁当作ってきてあげますよと言ったら先輩の目が輝いた。


会社の人との仲は良好だと思っている。


自分自身あまり波風立てたくない人物なので、流れに身を任せながら過ごしている。

相手を否定する事も好きではない。

自分や他人と比較して誰かを貶すのも嫌だ。


先輩にも後輩にも、出来る限り優しく接しているつもりだ。

なので昼休みにご飯を食べていると、よく色々な人が話かけてくれる。


どんな人でも嫌な部分は必ずあると思う。

でも、そこばかりを見るのではなくなるべく視野を広く見る様にしている。

そうすれば、誰でも良い所は数えきれない程見つかるのだから。



趣味の釣りは、会社が休みの土日に行く。


今日も今日とて、釣り道具を抱えながらお気に入りの波止場に来た。

ここは少し入り組んだ土地で、知る人ぞ知るといったあまり一目につかない場所だ。

そこには初心者もいないし、親子連れの騒がしい子供も来ない。

たまに地元のお爺ちゃんが来る位だ。


だからここではゆっくりと、海を見ながら過ごせる。

今日は5月初旬とは言え少し汗ばむ様な陽気だった。

でも、カラッと晴れた空を見ていると、日頃の忙しさを忘れる事が出来る。


今日は何が釣れるだろうか、期待しながら竿がしなるのを待っていた。


すると、不思議な事に直ぐ横に何か透明なカーテンの様な物が見えた。

俺はなんの気無しに、そこを通り抜けた。


——————————


気がつくと、俺はどこにいるのか分からなかった。

先ほどまでは海が見えていた筈だが、今は知らないビルの中にいた。

何故ビルにいたと分かったかと言うと、ガラスの窓から外の景色が俯瞰で見えたからだ。

かなり高いビルにいるのだと思う。


不思議と困惑したり、焦る事はなかった。

何故ならその場所についた瞬間から、何故だか凄く楽しい気分がするのだ。

例えるなら、釣りをして魚がかかった瞬間の様な、高揚した気分がずっと続いている。


何もかもが楽しくなってきて、俺は知らない人に話かけた。

その人も楽しそうに笑顔を返してくれる。

会話の中身は正直覚えてない。でも、間違いなく楽しかった。


知らない女性がこちらに手を振ってきた。

俺はその人の元へ向かう。

歩いているだけでも楽しい。それは何とも言えない快感だった。


彼女も満面の笑みでこちらを見ている。

挨拶をして少し話をした後その女性が俺の手を取って、別の部屋に連れていかれた。


そこでは煙が充満していて独特な匂いがしている。

不思議な匂いだが、何故か吸っていると良い匂いに思えた。


見ていると、女性が水タバコの様なものを吸い始めた。

ふう、と息を吐くと共に大量の水蒸気が散った。

他の人を見てみるも、皆同じ様にその水タバコを吸っている。


恍惚として表情で、吸っては吐いてを繰り返していた。

女性に促され、俺も吸ってみる。

吸い方が分からず一度にいっぺんに吸い込んでしまいむせた。

周りの人が笑ったが、俺も楽しくて笑ってしまった。


今までの人生の中で、水タバコと言うものは吸った事がないし、

勿論普通のタバコすら吸った事もない。お酒すら好んで飲まない。


そんな俺が、なんの抵抗もなくそれを吸っている。

そんな状態がますます面白くなってきて、皆と一緒に大きく笑った。


その後、その女性とは別れ町へ降りてみた。

すれ違う人皆がとても幸せそうに笑っていて、俺も1人で歩きながら満面の笑みを溢していた。


その後、知らない店に入った。

そこでは皆が酔った様に騒がしく、今の俺にとっては心地よく感じた。

店員に飲み物を頼もうとしたが、メニューなのだろうか。何と書いてあるか分からない。

すると、店員は水色とオレンジがかったカクテルの様な飲み物を出してくれた。


どうやってお金を払うとか、この飲み物はなんだとか、

そんな事は全てどうでもよかった。ただ、楽しかったのだ。


飲み物を飲んでみると、アルコールが入っている様には思えなかった。

でも飲み進めていく内に、自分が酔っている様な感覚に襲われた。


その後はあまり記憶がない。

店を出て直ぐの横道に寝そべった。

普通ならそんな事は絶対にしない。でも、あまりにも気持ちが良い。

冷たい道路が温まった頬に当たり、心地がよかった。


次の日の朝。

誰かが俺の肩を叩いて起こした。

俺は目を覚ました瞬間からもう楽しい気分で、起こしてくれた人を抱きしめた。

相手も抱きしめ返してくれて、これいるかと聞かれた。


手元をよくみると、錠剤の様な物を持っていた。

なんの薬なんだろう、そんな事も考えられず直ぐに頷いた。


水を買いに行きたかったが、どこに入ればいいのかも分からなかったので

その場でその錠剤を噛み砕いた。

苦いだろうと予想していたが、それはラムネの様に甘く、噛んで砕いても美味しかった。


なんだ、ただのお菓子かと思っていたが、直後脳内に電流が走った様な感覚がした。

それは決して不快な物ではなくて、ただただ気持ちが良かった。

時間が経つに連れて、その快楽はどんどん増していった。


俺はその場でスキップをしながら奇声を発した。

でもそんな俺の様子を見て誰も非難しない。

むしろ一緒に大声を出したり、皆並んでスキップに参加してくれた。


「ちょっと待てい。」

後ろを振り向くと、男性が2名立っていた。

声をかけた黒髪の男性は、凄く怒っている顔をしていた。


無視をして歩き出そうとしたが、もう1人の男性が俺の前に直ぐに立ちはだかった。


「あなたは今、別の世界線にきています。我々AUPDにて移送します。」


カーキー色の髪をした男性だ。キリッとしててカッコいい。

でも何て言った?AUPD?なんだそれ。どうでも良い。全ての快楽がここにある。楽しんだ。俺は。


「アマギリ、多分まともに話通じねえ。」

黒髪の男性も俺の前に来てそう言った。


俺はその様子が何だか面白くてゲラゲラと笑った。


「ここの世界線は脳内のドーパミンが強制的に出る様になっています。

ただ群衆は更なる快楽を求めて色んな物に手を出しています。もうあなたも経験してるでしょう。」


何か説明をしている様だが、視界がぐるぐると回る。

それでも楽しくて楽しくて仕方がなかった。


黒髪の男性が俺に棒の様な物を当てた。

「一旦正気に戻れ。」


それに触れた瞬間から、俺は先ほどまでの快楽が一瞬で消えた。


「何するんだよ!元に戻せ!」

俺は激怒した。先ほどまでの快楽がもうない。楽しさが急に消え去った。


「俺はセイガ、こっちがアマギリ。今からお前を99.999%近い世界線へ戻す。

ここでの事は忘れろ。ここはお前が生きる世界じゃない。」


セイガさんがそう言いいながら棒を当て続ける。

その棒を見てみるも、何かの基盤の様な模様をしており、不透明で不思議な物体だった。


アマギリさんが俺を見て言った。

「正直、戻ってもここの経験はかなり毒になります。心して生きてください。」


そう言ってセイガさんが何かリストバンドの様な物を操作した。


——————————


目を開けると、そこは先ほどまでいた海だった。


海はなだらかで、空は晴れている。

何かが変わった様にも見えない。白昼夢でも見ていたのだろうか。


俺はそう思いながら、何故か脳が乾いた感覚がしていた。


脳が、乾く。

そんな感覚は初めてだった。


その後暫く釣りをしたが、何故か凄くつまらなく感じた。


今まで何が楽しくてこんな事をしていたのだろう。

直ぐに道具を片付けて、直ぐに家に帰った。


家に帰ってからも、あの時の感覚が忘れる事が出来ずにいた。

あの時の興奮や、あの時の快楽。


あれはどこに行けば味わえるのだろうか。


会社に行っても、それは変わらなかった。

何故だか全ての作業が苦痛に感じる。

終日、貧乏ゆすりがずっと止まらなかった。


あの楽しさ、あの気持ちよさ。

それからの俺は、それをどうやったら手に入るのかを死に物狂いで探した。


パチンコに初めて行ってみた。

どこにお札を入れていいのかも分からなかったが、

困っていると店員さんが来てくれて教えてもらった。

暫くすると、当たりになった様で、右に打ち方を変えた。

当たった時、音や演出ボタンがバイブする様子は見ていて気持ちが良かった。


でもまだ足りない。


競馬や競艇、競輪など全てのギャンブルを一通り試した。

これらは何の快楽も得られなかた。


その頃には会社は休みがちになったし、

今までコツコツ貯めていた貯金はギャンブルによって少なくなっていた。


自炊する事も面倒でしなくなり、お金もあまりないので、

買ったおにぎり1個だけしか食べない日々が続いた。


ベランダをふと見ると、家庭菜園のトマトや薬草などは全て枯れてしまっていた。



そして、ネットの掲示板を頼りに違法の薬物を手に入れた。



錠剤になっているそれは、5粒で1万円もした。

本物かどうかも分からない。

でも、笑にも縋る思いでそれを買った。


売人は、お金を渡した瞬間どこかへ消えて行った。



俺は我慢しきれず、その場で錠剤を飲み込んだ。


数分したら、なんだかあの世界にいた様な気持ちよさと、少し酔った様な気分に襲われた。

もう少ししたら、地面からふわっと浮いた様に思える程、体が軽くなった。


空を見上げるも、夜空の筈なのにパッと花火が上がった様に見えた。


ああ、俺が追い求めていた快楽だ。


これが、欲しかったんだ。



これこそが、俺の世界だ。




「アマラギ君、捕まったんだって。」

ランチで隣に座っていた女性が俺にそう言った。


「は?マジ?」

俺は野菜ジュースを飲みながら、彼女を見る。

「うん。ずっと無断欠勤してたでしょ、薬物で捕まったみたいよ。」


その言葉が信じられなかった。


俺は以前のアマラギを思い出す。


毎日朝早く会社に来て、皆の分のコーヒーを淹れてくれる。

気分の波も少なく、いつも穏やかで仕事も丁寧に作業していた。


俺が菓子パンばっかり食べていると、今度弁当作ってくれると言ってくれた大事な後輩。

家庭菜園のトマトが、いつ頃食べれそうかを嬉しそうに話していた姿を思い出す。



「…あいつが、そんな事する訳ねーよ。」


俺の様子を見た女性が、ごめんと呟いて去っていった。



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