僕の普通、無邪気な少女

「おかえり」聞き慣れた声が、聞こえる。扉を開いた先には明かりが灯っていて、それは小さくて美しい。少しだけ暮れた陽と、薄暗い雲。それとは対象になって、部屋の中は賑やかになっていく。


「ただいま〜」アンは手を上げて、笑う。それはもうご機嫌で、キッチンに走っていく。微笑ましくて、さっきまでの緊張なんてなかったみたい思える。けれどさっき起きたことは現実で、確かな実感がある。僕はアンの後を追って、キッチンに向かう。


「ただいま」アンみたいには行かず、僕は普通に言う。年相応の子供らしさが欠けてしまっていると思うけど、仕方ない。アンは無邪気すぎるし、僕は豆腐すぎる。そこが人間らしいといえばそうだけれど、なかなか難しい。


「手洗いは、こうやるのっ」いきなり母は、アンの手を泡立てる。アンはくすぐったいのか顔を仰向けにして、笑い転げる。しかし母はそんなアンを見逃さず、優しく手先を撫でていく。


「もう、あはは」アンの抵抗も虚しく、泡は更に立っていく。ある程度のところで母はそれを流して、白い布で吹き始める。その間何度も、可愛いねと何度もアンに言って。何故か僕の手も洗われてしまったのは、御愛嬌だ。母は僕の手を丁寧に洗うと、ありがとうと小さく言う。聞き取れるか聞き取れないかギリギリの音で、正直言っていたかどうかすらわからない。けれど、それが確かに母の思いを多分に含んでいたことだけは確かだ。


「アン」僕は意気消沈したアンを起こすために、体を揺さぶる。アンは床にぐったりと倒れていて、とても動きそうにない。こんなところで寝ていたら、きっと踏まれてしまうだろう。多少強引に起こすしかないかなと思ったけれど、運ぶ。体重はそんなにでもない筈なのに、運ぶのが難しい。アンは小さいし僕も小さいのだ、仕方ない。


「大丈夫か?」穏やかな声の先にいる、精悍な人間。彼は紛れもなく、さっきまで仕事をしていた父だろう。父はそう言って、アンと僕を抱える。その動作はまるで紙でも持つみたいに軽やかで、卓越している。子供を運ぶのに卓越しているもないと思うけれど、本当にきれいな動作だ。階段を上がり、可愛らしい扉を開ける父。その先の小さなベットに、アンを下ろす。アンはその間ずっと気を失っていて、揺られるままに揺られている。今度はあまり飾り気のない部屋のドアを開けて、父は僕を下ろす。父は不思議と緩んだ表情をしていて、穏やかだ。逆らえない眠りの欲求が、心地よく僕を誘う。まだ沈みきらない陽を思い出しながら、僕は眠る。

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