ガーベラと母の約束

一の八

ガーベラと母の日の約束






久しぶりに訪れた島では、目の前には,大きな山々が広がっていた。



相変わらずのびのびした様子で木々が生い茂っているようだ。

潮の香りが鼻をかすめ、海は太陽の光が反射してキラキラと輝いていた。



都会の暮らしに慣れてしまったせいか、なんだか異国の地に訪れたかの様にもの寂しさを感じた。


夏になると、緑に囲まれた木々の中でみかんが実をつけ始めると、島の灯火をつけるかように彩りを見せる。


そんな島の季節の移ろいは、驚くほどにあっという間に過ぎていく。



実家の近くへと向かっていると

「いっちゃん、久しぶりやね?どうしとたっと?」

近所に住む叔父が声を掛けてくる。

以前に比べると皺が増えて、腰も少しだけ曲がっている。だが,口調や雰囲気はあの頃から変わっていなかった。


「あ,叔父さん。久しぶりやね。なんか相変わらずって感じやんね。これから母のところに」


「そうやね、今日は、そういう日やんね」


家から歩いて徒歩10分ほど行った所にお寺がある。

島では,多くがそのお寺にあるお墓で眠ることが多い。


5月というのに真夏のような季節外れの暑さの中、石段を一歩一歩と登っていく。


登り終えた頃には、少しだけシャツが汗で滲んでいた。


じめっとした、シャツに風を通すかのように首元のネクタイを少しだけ緩める。



バケツに水を汲み、昔から大好きだった”ガーベラ”を持ち,母がいる場所へと向かった。


線香に火をつけて、煙がすうっーと空へと登っていく様子を確認すると,静かに手を合わした。


「母さん、また来るからね」



何度目の春を迎えただろう。

気づけば、母の年齢を超えていた。


母とは、他愛もないことでよく話をしたな。



「昨日、キャラ弁にしたでしょ? 恥ずかしいから普通のでいいってば」


あの頃の僕は、母の気持ちより、友達の前でどう見えるかばかり気にしていた。


「せっかく、丹精込めて作ったのに…」

母は少し寂しそうな顔をしながら、台所で黙々と洗い物をしていた。


母の手作り弁当に、ありがたみなんて感じたこともなかった。



そんな母が、ある日から少しずつ異変が現れるようになった。


「なんでご飯がないの?」と、食べ終えたあとに尋ねてきたり、

「お隣のお母さん、最近見ないわね」――もう1年前に亡くなっていることすら、忘れてしまっていた。


症状は日に日に進行していった。

同じ話を何度も繰り返し、時には感情的に怒ることもあった。


それでも、母の好きなガーベラの前に立つときだけは、不思議と優しい笑顔を見せていた。





月日が流れるにつれて、会話も「あー」「うー」といった言葉にならない音に変わっていった。


僕も母のためにと色々と介護に励むようになった。


ご飯を作って、「いやだ」と言って投げられたり、少しを目を離していると知らない所へ出てしまっていたり。


それでも母のおかげで今があるんだと、自分を鼓舞するかのように「大丈夫、今だけ。きっと大丈夫」というのが口癖になっていた。


そんなある日、食事中に母が脱糞をしてしまった。

その瞬間になんだか、心の糸がプツッときれるような音がした。


僕は、言葉に出せないまま。

すうっーと頬を伝うものを感じた。


近くに住んでいた、叔父が家を尋ねると、

異変を察知して、目を一点に見つめたまま言葉を失っていた。


僕たち家族の様子を見かねた叔父が言った。


「このままじゃ、二人ともがつぶれるけん。施設に預けんと…。お金は僕が出すもんで。」


僕はその提案を、意外にもすんなり受け入れてしまった。

きっと、今の生活に限界を感じていたのだと思う。


叔父の助けもあってか、なんとか仕事先を見つけ、社会人としての生活を始めることができた。



今までのことを忘れるかのように、目の前の仕事に取り組んだ。



もともと一つの事に集中して取り組む事が好きだったのもあってか、

仕事場では、周りからも信頼を受けて”出世コースも,間違いない”と仲のいい同僚から太鼓判を押されるくらいに期待?をされていた。




施設に入ってからの様子は、週に一度訪れて見るようにしていた。


母はあの頃とは、見違えるように体調を取り戻した。



「今日も体調良さそうで、よく外を眺めながら色んな話をしてますよ。」


施設に行けない時には、職員の方から母の様子を聞いていた。

そんな様子を聞いては、少しだけホッとしている自分がいた。


「やっぱり、これでよかったんだ…」

そう自分に言い聞かせながら、ポケットにスマホをしまった。




…本当にこれでよかったのか?

それとも、他にできたことはなかったのか?

答えのない問いを、何度も心の中で繰り返していた。



昼休憩も残りわずかな時間だな。

あと、こんな生活がどれだけ続いていくんだろうか…

喫茶店の窓から見える景色をぼんやりと、眺めては毎日そんな事ばかりを考えていた。




ある日、施設から一本の電話がかかってきた。


時計をみると、18時を回ろうとしていた。


「大変です。お母さまが、いなくなってしまって…」


職員の焦った声に、胸が締めつけられる。

「どうしよう」「どこに行ったんだろう」

そんな不安にまぎれて、「このままいなくなってくれれば」と、一瞬でも思ってしまった自分がいた。


その感情に気づいて、深く息を吐いた。


締め切りの迫った仕事に追われてばかりの日々。


あと、数日もすると、大きなプレゼンの発表会が迫っていることもあってか、

社内ではなんだか重苦しい雰囲気があった。


そんな中で、母がいなくなった…。




このまま仕事を続けるべきか。

遠くを見るような目をしながら、

眼の前のパソコンを前に考えていると…

近くにいた同僚が、声をかける。

「なにやってんだ!」


「あっごめん。すぐに取り掛かるから。」


「違うだろう。こんな所にいないで、早く行けって。」

「えっ?なんで?」


「前に話ていた、お母さんのことだろう?なんかいつもと様子が変だと思ったから」


「でも、すぐになんとかなるだろうし…」


「何、言ってんだ。お前がいなくてもなんとかなる。だから、はやく行け。」



同僚の後押しもあったのか、

すぐに上司のデスクへ向かい、

事情を話すと、「すぐに行ってあげなさい」とすんなりと退社を許してくれた。



会社を出ると、急いでタクシーを捕まえる。


「あの、すみません。とりあえず…」

えっと、どこへ向かえばいいんだ…

母との思い出を振り返ってみた。

よく行きそうな所…

スマホにある写真のホルダーを開けてみる。


すると、最近の写真には、同僚と飲み会のときの写真。

なにが楽しくて、こんなにも、

“笑って、居られるんだ”というくらいの笑顔を見せている。


どれだけスクロールをしても、

最近の母と写した写真が一枚も見つからない。



ここ最近の母との写真が、

ほとんど無いことに気がついた。

唯一あったのは、ホームに入り始めた時に撮った写真だけだった…。


「あの…」

と未だに発進しない車にタクシーの運転手が声をかけてきた。

「とりあえず、このまままっすぐに、お願いします。まっすぐに行った所で、突き当りを左に…」

とりあえず施設の方へと向かうことにした。



母が行きそうな場所を、手当たり次第に探していたその時。



一本の電話が鳴った。


「もしもし、西警察署です。お母さま、見つかりました。近くの花屋さんにいらしたようです。店員さんが通報してくれて、西交番で保護しております」


「…ありがとうございます。すぐに向かいます」


ポケットにスマホをしまい、心の中に浮かんだ罪悪感を、静かに押し込めた。



交番につくと、母はパイプ椅子に腰掛けていた。


「遅かったじゃないの」

母は、待ちくたびれたような様子で言った。


「遅かったじゃないよ!どれだけみんなに迷惑かけたか分かってるの?」


「ごめんなさい。でも、これが欲しかったの。だって、いっくん、くれないから」


母が手にしていたのは、一本の白いガーベラだった。


ふと交番の壁にかかるカレンダーに目をやると――

「そうか、今日は母の日だったんだ…」



母は、嬉しそうにガーベラを見つめていた。

その顔には、あの日と変わらぬ優しさがあった。


母の優しそうな表情を見ていると、ぽつり、ぽつりと、涙がこぼれた。


「来年は、ちゃんと用意するから。どこにも行かないでね」


「約束よ。私、昔から物覚えだけは、いいんだから。絶対よ」


「絶対…に…忘れないから…。」

声を振り絞りながら答えると。



「そうだ、明日の弁当は、楽しみにしておいてね」


母を嬉しそうな表情をして,僕に言った。


まさか、キャラ弁を作ろとしているのか。

「だから…」


そうか、あの頃が母さんにとっての一番、楽しい瞬間だったんだ。



「うん、楽しみしてるよ」

母は、嬉しそうにを見つめる白いガーベラを手に答えた。




傾きかけた陽の光に照らされたその花はわずかに色を変えていた。


その色は、世界にどこにもない,特別な色をしていた。

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