樽を知る
まる
樽を知る
「樽を知るという言葉を知っているか?」
橋の下で寝転がっていたホームレスが僕にいった。髪はぼさぼさで無造作に伸ばされた後ろ髪が肩まで伸びている。前髪は両眼を覆い隠していて、伸びたひげがこめかみでつながっていた。後ろには青いビニールテントが張ってある。雪が積もっているかのように、うなだれていた。
「足るを知る? 知ってるよ。わがまま言わないで今の環境で満足することでしょ、夢を見ないで現実を見ることだよ」
「坊やは賢いな」
「僕の父さんと母さんが言っていたんだ」
「そうか、ろくでもない親を持ったな。ぼうや、俺が言っているのは樽を知るだよ。飲み物を入れる樽の方で、足りるの方じゃない」
「よくわからないよ」
少年は親を馬鹿にされて、ぶっきらぼうに答えた。この場から立ち去ってしまおうかと思った。
「足るを知れと偉そうに言うやつは何様なんだ? そいつらが俺と同じ状況にいたら満足できると思うか?」
おじさんは黒くて茶色がかったズボンを引っ張って揺らした。元の色がわからないくらい汚れていた。
「確かに現状把握は重要だ。周りと比べて満たされているのも重要だろう。だが最初に知るのは己を知ることだ。自分の樽を知ることだ。自分の樽の大小を認識して初めて、自分の樽がどれだけ満たされているかわかる。樽はな、坊主。小さくも大きくもできないんだよ」
そう言うととおじさんはテントの中から小さい樽を取り出して、地面に置いてから続けた。
「坊やはこの樽の大きさを変えれるか?」
「割ったらいいよ。そしたら半分になる」
「いいアイデアだが、樽の形を保ったままでだよ」
樽を触り、上から見たり、下からのぞき込んだりした。
「そんなの無理だよ。もうこの樽はこの大きさで出来上がってるじゃないか」
「そうだ。この樽の大きさを、今さら変えることはできないんだよ」
おじさんは嬉しそうに笑いながら言った。歯がほとんどなかった。
「人間にも同じことが言える。人間もそれぞれに大小さまざまな樽を持っているんだ。その樽が生まれつき決まっているとは言わない。小さい頃は樽は出来上がってないんだ。成長するにつれて、樽の材料を準備したり加工して、自分だけの樽が出来上がる。出来上がってしまった樽はそう簡単に作り直せない。この樽と同じさ」
おじさんは樽を小突いた。倒れた樽が音を立てて転がっていく。
「おじさんが言っていることは、屁理屈っていうんじゃないかな」
「なぜそう思う?」
「足るを知るっていうのは、おじさんの言うところの樽がさ、どれだけ大きかろうが小さかろうが、今満たされている範囲で満足しようってことだよ。大きさなんてどうでもいいんだよ」
「坊主、コップいっぱいに水がはられ、今にもあふれ出しそうなところを想像してみろ」
僕はそんな状態のコップを想像した。表面をすすってからじゃないと持ち運べないコップ。
「一方で、風呂に入るために素っ裸になって浴槽に向かったのに、蓋を開けてみたら足首までしかたまっていないときのことを想像してみろ」
浴槽のお湯が僕の足首にちょうど当たっている。しゃがみこむとお尻の下側が温められる。壁にもたれると冷たくて硬い感覚が伝わってくる。
「喉の渇きを癒すのに十分なコップ一杯の水を持つやつと、水の総量はコップ一杯より遥かに多いが、風呂に入りたいのに足首までしか浸かれない水しか持っていないやつ、どちらが足るを知れる?」
「そりゃ、コップいっぱいのみずだけどさ、それも屁理屈じゃないかな。風呂場の水はお風呂に入るためでしょ? 飲むための水と比べるのはおかしいよ。そういうのは比較不可能っていうんだよ」
「俺が言っているのはそういうことなんだよ。俺は風呂に入りたいんだ。コップ一杯の水じゃまったくもって足りないんだ。それなのにコップ一杯の水が飲めればそれでいいじゃないですかと、あほみたいなことを言いやがる。それが足るを知ることだ、大人になることだ。そんな生ごみよりも役に立たないことをどや顔で、恥ずかしげもなくのたまう。こいつらは俺をおちょくっているのか? コップいっぱいの水? 誰が水を飲みたいといった? 俺は風呂に入りたいんだ、風呂に入るのに水がたりないんだよ。俺は樽を知っている。俺の樽を満たすにはあまりにも足りないんだ。それが現実であり全てなんだよ」
「でも、風呂に入るのは贅沢なことだよ。たくさん水を使ってもったいないって学校で習ったよ」
おじさんは嬉しそうに笑った。歯がない笑顔はそれはそれで奇麗だった。
「そうだな、坊主。大きな樽を満たそうとするのはただの贅沢なのかもしれない。だがコップいっぱいに水を満たすのも贅沢なんだよ。水が満足に飲めない人もいるんだと、水をたらふく飲んで、毎日風呂に入って、長い時間シャワーをしているやつが言うだろ? 風呂に入る贅沢はできないからコップ一杯の水で満足しろというわけだよ。お前はそれで仕方ないだろって。これの何が面白いんだ?」
「やっぱり屁理屈を言っているようにしか聞こえないよ」
「確かに、屁理屈かもしれんな。だがな坊主、そもそも理屈ではないんだよ。樽は満たされなければならないんだ。樽を満たすことでしか心は満たされないんだ。水が飲みたいのに、大さじ一杯の水だと満足できないだろ? だけどな、大さじ一杯の水でも、指先を洗うには十分なんだぞ? 樽はすでに出来上がっていて、用途は樽ごとに違うんだ。だがどちらにせよ、樽は満たさなければならない。樽が満ちていないと俺たちは満たされない。俺が言いたいのはそういうことなんだよ。」
「うーん。わかるようなわからないような。ていうかさ、樽を満たしたらどうなるの?」
「満足するんだよ」
「それだけなの? 満足するだけ? 大金持ちになったり、スポーツ選手になれたりしないの?」
「それは樽を満たしてみないとわからないな。樽からあふれ出たものが他者にどう映るかは、あふれ出なければわからない。 お金持ちになるのかもしれないし、スポーツ選手になるのかもしれない。あふれ出た結果、煩わしいだけの水たまりになるかもしれない」
「でも、満足はするんだ」
「満足はするだろうな、樽が満たされたんだからな」
「でもさ、満たしても満足するだけかもしれないなら、樽は小さいほうがいいじゃん。小さい樽で、自分の樽を知って、足るを知った方がいいと思うな」
おじさんは橋を見上げ、ため息をついた。口には満足そうな微笑が、目には戻らぬ過去を思い出すような悲しみが浮かんでいた。
「ああ、そうかもしれんな。足るを知っているのはとても幸せなことなんだ。そいつの樽の大小にかかわらずな」
樽を知る まる @A3yousi
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