第十章 仮面の下の道化師

床に転がったオペラグラスは、まるで嘲笑うかのように、鈍い光を放っていた。あたしはしばらくの間、それから目を逸らすことができなかった。鏡の中の自分が突きつけてきた言葉――『あの状況で「悲劇のヒロイン」を演じる自分に酔っていただけ……?』――それが、あたしの頭の中で繰り返し再生される。


馬鹿馬鹿しい。あたしが、そんな安っぽい自己満足のために、シャノワールを危険に晒したというの? 冗談じゃないわ。


でも、否定すればするほど、その言葉はあたしの心に深く食い込んでくる。あたしは天音メル。舞台の上で、観客の視線を一身に浴びて輝く女優。その本質は、どんな時でも「演じる」こと。日常でさえも、あたしにとっては一つの舞台であり、周囲の人間は観客か、あるいは共演者だ。


あの魂喰らいの鏡の世界で、あたしは確かに絶望し、恐怖した。でも、心のどこかで、その悲劇的な状況に酔いしれていた自分がいなかったと、どうして断言できる? 「最も大切なものを失うかもしれないヒロイン」という役に、無意識のうちに没入していなかったと、どうして言い切れる?


「……最低ね、あたしって」


思わず、乾いた笑いが漏れた。シャノワールは、あたしの足元で心配そうにこちらを見上げている。その純粋な琥珀色の瞳が、今は少しだけ、あたしには眩しすぎた。


あたしはオペラグラスを拾い上げた。もう一度、これで自分を覗き込む勇気はなかった。だが、これを手放す気にもなれなかった。この小さな機械は、あたしに不都合な真実を突きつけたけれど、同時に、これまで誰も見抜けなかったあたしの深層を暴き出したのだから。


翌日から、あたしの日常は微妙に変化した。以前のように、気軽にオペラグラスを手に取ることはなくなった。しかし、その代わりに、あたし自身の目が、まるでオペラグラスのレンズを装着したかのように、他人の言動の裏側にあるものを、より鋭く感じ取るようになっていた。


冴島の何気ない言葉の端々に隠された打算。街ですれ違う人々の笑顔の裏にある疲労や見栄。それらが、以前よりも鮮明に、そして不快なほど明確に、あたしの目に映るようになったのだ。世界全体が、薄汚れた仮面舞踏会のように見えた。


「……メル君、最近何かあったのかね? 少し、雰囲気が変わったようだが」


ある日、冴島が訝しげにあたしに尋ねてきた。彼が淹れてくれた、妙に苦いハーブティーを啜りながら、あたしは曖昧に肩をすくめた。


「別に。ただ、少しだけ『観客』の気持ちが分かるようになっただけよ」

「ほう。それは、女優として大きな進歩じゃないか」

「どうかしらね。知りたくもないことまで見えてしまうのは、必ずしも良いことばかりじゃないわ」


あたしの言葉に、冴島は意味ありげな笑みを浮かべた。


「どんな道具も、使い手次第で薬にも毒にもなる。そして、真実という名の刃は、時として自分自身にも向けられるものだ。君が手にした『観劇者の双眼鏡』は、そういう類のものなのだろう」

「……あなた、やっぱり知ってたのね。あのオペラグラスの本当の力を」

「さあ、どうだったかな。ただ、どんな舞台であれ、最も興味深いのは、仮面の下に隠された役者の素顔だよ、メル君」


冴島の言葉は、相変わらずあたしの心を見透かしているかのようだった。この男には、どこまでお見通しなのだろう。


その夜。あたしは屋根裏部屋で、シャノワールを膝に乗せていた。その柔らかい毛並みを撫でながら、あたしは自問自答を繰り返す。


あたしは、道化師なのかもしれない。観客の喝采を浴びるために、様々な仮面をつけ、心を偽り、感情を演じ分ける。そして、その仮面があまりにも馴染みすぎて、どれが本当の自分なのか、分からなくなってしまった哀れな道化師。


でも……。


(それで、何が悪いの?)


ふと、そんな開き直りにも似た感情が、あたしの中で芽生えた。


そうよ。あたしは女優、天音メル。虚構を生き、虚構を愛し、虚構によって生かされている存在。たとえ、その動機が自己満足や虚栄心だったとしても、あたしが演じることで誰かの心が動き、物語が生まれるのなら、それはそれで価値があるんじゃないかしら。


シャノワールを危険に晒したかもしれないという罪悪感は、消えない。でも、それを抱えたまま、それでもあたしは舞台に立ち続けるしかないのだ。なぜなら、あたしにはそれしかできないのだから。


あたしは、床に置いていたオペラグラスを手に取った。そして、再び自分の目をそれに当て、鏡に映る自分を見た。


そこには、数日前と同じ言葉が浮かび上がってくる。


『称賛されたい』『特別でありたい』『孤独は怖い』『本当の自分を知られるのはもっと怖い』……そして、『悲劇のヒロインを演じる自分に酔っていた』。


でも、今度は、その言葉たちを見ても、心は揺らがなかった。


「ええ、そうよ。それが、あたし」


あたしは、鏡の中の自分に向かって、静かに、しかしはっきりと告げた。


「あたしは、虚栄心と自己満足と、ほんの少しの純粋な(・・・・)演技(・・)への渇望で出来上がっている、どうしようもない道化師。でも、だからこそ、誰よりも巧みに、あなたたちを騙し、魅了することができるのよ」


あたしは、オペラグラスから目を離し、不敵な笑みを浮かべた。


この観劇者の双眼鏡は、あたしに絶望ではなく、新たな武器を与えてくれたのかもしれない。それは、自分自身の欺瞞性(ぎまんせい)を直視し、それを逆手に取って、より完璧な「役」を演じきるための、究極の小道具。


もう、このオペラグラスを恐れることはない。あたしは、これを使って、もっと多くのものを見るだろう。人間の心の奥底、世界の裏側、そして、あたし自身の、まだ見ぬ仮面の下の素顔を。


なぜなら、最高の道化師は、自分自身をも騙しきってこそ、真の喝采を得ることができるのだから。


あたしは、オペラグラスをそっと懐にしまった。それは、あたしの新たな「共演者」であり、同時に、あたし自身を映し出す、もう一つの魂喰らいの鏡なのかもしれない。


アンティーク冴島の薄暗い舞台で、あたしの新たな演技が、今、静かに始まろうとしていた。それは、誰にも見破られない、完璧な仮面を被った道化師の、孤独で、そして華麗なる独白(モノローグ)。

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