第八章 幕間(まくあい)の不協和音
アンティーク冴島に戻ってきたあたしとシャノワールを待っていたのは、静寂だけだった。砕け散った魂喰らいの鏡の破片が、床に散らばり、不気味な光を放っている以外は、いつもと変わらない店の光景。冴島の姿は、どこにも見当たらない。
「……逃げたのかしら、あの胡散臭い店主」
あたしは、疲労と安堵の入り混じったため息をついた。シャノワールは、あたしの足元で念入りに毛づくろいをしている。まるで、鏡の世界での冒険の汚れでも落とすかのように。
それにしても、代償はどうなったのだろう。老婆は確かに言った。「お前さんの最も大切なものじゃ」と。シャノワールが無事だったということは、何か別のものを失ったというのだろうか。それとも、あの老婆が最後に気まぐれを起こしたのか。
あたしは、自分の身体や持ち物を確認してみたけれど、特に何かがなくなっている様子はない。女優としての才能? いや、それも健在のはずだ。むしろ、あの鏡との対決を経て、あたしの演技はさらに磨きがかかったような気さえする。
「まあ、いいわ。今は考えないことにしましょ」
あたしは、無理やり思考を打ち切った。今はただ、この勝利の余韻に浸っていたい。そして何より、シャノワールが無事だったことが、あたしにとっては最大の報酬だ。
あたしは、散らばった鏡の破片を注意深く集め始めた。一つ一つが、鋭利で、そして冷たい。これだけの曰く付きの品だ。このまま放置しておくわけにはいかない。
その時、店の奥から、かすかな物音が聞こえた。
「……誰かいるの?」
あたしは、警戒しながら声をかけた。シャノワールも、ピクリと耳を動かし、低い唸り声を上げている。
ゆっくりと音のする方へ近づいていくと、そこは冴島の書斎らしき部屋だった。重厚な木製の机の上には、何冊もの古びた本が積み重ねられ、壁には奇妙な紋様が描かれたタペストリーが掛けられている。そして、部屋の隅の大きな革張りの椅子に、深々と腰掛けている人物がいた。
「……冴島さん?」
それは、間違いなくこの店の主、冴島だった。しかし、その様子はいつもとどこか違う。顔色は青白く、額には脂汗が滲んでいる。そして、その手には、黒曜石のような、艶のある黒い石を握りしめていた。
「やあ、メル君。……無事に戻ったようだね」
冴島の声は、弱々しく、かすれていた。いつものような、人を食ったような態度は微塵も感じられない。
「あなたこそ、大丈夫なの? まるで幽霊でも見たような顔してるけど」
「……ああ、少しばかり『代償』を支払っただけだよ」
冴島は、自嘲するように笑った。その言葉に、あたしは息を呑んだ。
「まさか……あたしが失うはずだった代償を、あなたが肩代わりしたっていうの?」
「人聞きの悪いことを言わないでくれたまえ。これは、私が望んで支払ったものだ。君との『契約』に対する、私なりの誠意だよ」
冴島は、手に持った黒い石をあたしに見せた。それは、まるで闇そのものを固めたかのような、不気味な輝きを放っている。
「これは、『魂の欠片(ソウル・フラグメント)』。魂喰らいの鏡が砕け散る際に飛び散った、最も純粋で、そして最も危険な力の名残だ。あれの呪いを完全に封じるには、誰かがこれを取り込み、浄化する必要があった」
「……だからって、あなたがそんな危険なものを……!」
「私には、その資格がある。いや、義務があると言うべきかな。このアンティーク冴島という店は、ただの骨董屋ではない。それは、君も薄々感づいているだろう?」
冴島は、ゆっくりと立ち上がった。その足取りは、まだ少しおぼつかない。
「この店は、いわば『境界』なんだ。現実と虚構、此岸(しがん)と彼岸(ひがん)、様々な世界の狭間に存在する、不安定な場所。そして、ここに集まる品々は、その境界を彷徨う『迷い子』たちだ。私は、彼らが安らかに眠れる場所を見つけるための、道先案内人のようなものさ」
「道先案内人……」
「魂喰らいの鏡は、その中でも特に強力で、危険な存在だった。あれが暴走すれば、この街全体が、いや、もっと広範囲に渡って、取り返しのつかない事態になっていたかもしれない。君のおかげで、それを未然に防ぐことができた。感謝しているよ、メル君」
冴島は、初めてあたしに対して、心からの感謝の言葉を口にした。その表情には、いつものような胡散臭さはなく、どこか寂しげな、そして安堵したような色が浮かんでいた。
「……別に、あなたのためにやったわけじゃないわ。あたしは、あたしの『舞台』を演じきっただけよ」
あたしは、素直になれず、そっぽを向いて言った。
「ふふ、君らしいね。それでこそ、私が見込んだ女優だ」
冴島は、少しだけいつもの調子を取り戻したように笑った。
「さて、メル君。君には、しばらく休暇をあげよう。今回の『舞台』は、少々骨が折れただろうからね。ゆっくり休んで、また新たな『役』に備えてくれたまえ」
「……新たな役、ですって? まだあたしに何かやらせるつもり?」
「もちろんさ。このアンティーク冴島には、まだまだ君を待っている『共演者』たちが大勢いる。そして、君という最高の女優がいなければ、彼らの魂は永遠に救われないのだから」
冴島の目は、再びあの底の知れない輝きを宿していた。この男、やはりただ者ではない。そして、あたしは、この男が作り出す奇妙な「劇場」から、もう逃れることはできないのかもしれない。
「……シャノワール、どう思う?」
あたしが尋ねると、シャノワールはにゃあと一声鳴き、あたしの頬にすり寄ってきた。その仕草は、まるで「面白くなってきたじゃないか」とでも言っているかのようだった。
あたしは、小さくため息をついた。どうやら、あたしの女優人生は、まだまだ波乱万丈な展開が続きそうだ。
「いいわ。ただし、次の『舞台』は、もっとギャラを弾んでもらうわよ、冴島オーナー?」
あたしは、不敵な笑みを浮かべて言った。
アンティーク冴島という名の劇場。その幕間のベルが、今、静かに鳴り響いた。そして、それは同時に、次なる波乱に満ちた新たな幕開けの合図でもあったのだ。
この薄暗い骨董屋で、あたしとシャノワール、そして曰く付きの品々が織りなす奇妙な物語は、まだ始まったばかりなのかもしれない。
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