アンティーク座の天音メル -彼女こそがプリマドンナ-

kareakarie

第一章 虚飾のプレリュード

あたしは天音(あまね)メル。しがない街のしがないアパートで、しがない暮らしを送る、しがない少女。……なんて、誰が信じるものか。このあたしが、ただのメルであるはずがない。そうでしょう?


窓の外は、いつものように煤けた鈍色の空が広がっている。ここ「灰被り地区」では、青空なんてものは絵本の中でしかお目にかかれない代物だ。工場からの煙が一日中空を覆い、まるで世界全体が巨大な喫煙室みたいになっている。もっとも、あたしはこの薄暗さが嫌いじゃない。明るすぎる場所は、どうにも落ち着かなくてね。隠しておきたいものまで、全部暴かれてしまう気がするから。


「さて、今日の糧を得るための算段はどうしたものかしらねぇ」


独りごちて、古びた木製の椅子に深く腰掛ける。ギシリ、と軋む音が、この部屋の侘しさを一層際立たせた。壁には、いつかの住人が描いたのだろうか、稚拙な花の絵が残っている。その花は、この灰色の世界で唯一、鮮やかな色彩を放っていたけれど、それすらも煤けて、どこか物悲しい。


あたしは、見てくれはこうしているけれど、実は「箱庭劇場」という小さな劇団の元看板女優なのよ。まあ、看板女優といっても、客席はいつも閑古鳥が鳴いていたけれど。それでも、舞台の上だけは、あたしが主役でいられた。薄汚れた日常を忘れさせてくれる、キラキラとした虚構の世界。脚光を浴びて、観客の視線を一身に集めるあの快感は、何物にも代えがたいわ。


劇団が解散してからは、日雇いのアルバイトで食いつないでいる。でも、そんな生活は仮の姿。あたしは信じているの。いつか必ず、この灰被り地区を抜け出して、もっと大きな舞台で、たくさんの観客を魅了する日が来るって。そのためには、少々の……そう、少々の「演出」も必要でしょう?


たとえば、あたしは時折、裕福な家の令嬢を演じることがある。仕立ての良い服(もちろん、古着屋で手に入れた掘り出し物よ)を身にまとい、優雅な言葉遣いで、高級レストランのウェイターを翻弄するの。注文するのは一番安いコーヒーだけれど、あたかも何百万の食事をしているかのように振る舞う。周囲の客が訝しげな視線を向けてくるのも、また一興。彼らは知らない。このあたしが、どれほど高貴な魂の持ち主であるかを。


もちろん、そんな「ごっこ遊び」が長く続くわけじゃない。支払いの段になって、メッキが剥がれることもしばしば。でも、そんな時は得意の涙と、悲劇のヒロイン顔負けの演技で切り抜けるのよ。「まあ、お財布を忘れてしまったのかしら!なんてことでしょう、こんなみすぼらしい格好で…」なんてね。大抵の人間は、美しい少女の涙には弱いものよ。


ある日のこと。いつものように、街をぶらつきながら今日の「役」を思案していた。場末のバーの薄暗い電飾が、気怠げに点滅している。その時、ふと視界に入ってきたのは、路地裏にうずくまる一匹の猫だった。痩せて、毛並みもところどころ禿げている。だけど、その瞳だけは、妙に強い光を放っていた。まるで、この世界の全てを見透かしているような、そんな瞳。


「あら、奇遇ね。あなたも、こんな煤けた街でお仲間探し?」


猫は答えない。ただ、じっとあたしを見つめている。その視線に、なぜか心が揺さぶられた。普段なら、見向きもしないような汚れた野良猫。でも、その瞳の奥に、何か通じるものを感じたの。それは、孤独? それとも、諦観? いや、もっと別の何か……。


「ふふ、いいわ。あなた、あたしの共犯者にならない?」


猫は相変わらず黙っている。でも、その沈黙が、あたしには肯定の返事に思えた。


「決まりね。今日からあなたの名前は……そうね、『シャノワール』。黒猫って意味よ。安直? いいのよ、名前なんて記号なんだから」


あたしはシャノワールを抱き上げた。思ったよりも軽い。この子も、きっとあたしと同じ。虚勢を張って、必死に生きているのかもしれない。


その日から、あたしの「ごっこ遊び」にシャノワールが加わった。時には、裕福な家の飼い猫として。またある時には、不思議な力を持つ使い魔として。シャノワールは、どんな役も見事にこなしてくれたわ。まあ、実際にはただそこにいるだけなんだけど、あたしの想像力にかかれば、彼は名優も顔負けの存在感を放つの。


「ねえ、シャノワール。あたしたち、いつか本当にこの街を出られるのかしらね」


返事の代わりに、シャノワールが喉を鳴らす音が聞こえる。その温かい振動が、あたしの心にほんの少しだけ、安らぎを与えてくれた。


でも、そんな安穏とした日々は、長くは続かないものよ。この街には、あたしたちのような「異物」を排除しようとする、見えない力が常に働いているのだから。そして、その力は、じわじわと、しかし確実に、あたしたちの足元に忍び寄ってきていた。


ある雨の日の午後。シャノワールと一緒に、いつものように「お散歩」と称して街を徘徊していた時のこと。ふと、背後から視線を感じた。振り返ると、黒塗りの車が一台、路肩に停まっている。そして、その車から降りてきたのは、見るからにカタギではない風貌の男たちだった。


「よう、お嬢ちゃん。ちょっとツラ貸してくれや」


男の一人が、下卑た笑みを浮かべて近づいてくる。その手には、鈍く光る何かが見えた。


ああ、また始まった。この街ではよくあること。弱者を見つけては、ありとあらゆるものを搾り取ろうとする輩。でも、今日のあたしは、いつものあたしとは少し違う。なぜなら、あたしにはシャノワールがいるから。


「あら、ごきげんよう。わたくしに何か御用かしら? ご覧の通り、わたくしは今、愛猫との優雅な午後の散策を楽しんでいる最中なのですけれど」


あたしは、背筋を伸ばし、できるだけ毅然とした態度で言い放った。心臓は、早鐘のように打っている。でも、顔には出さない。女優の鉄則よ。


男たちは、あたしの芝居がかった口調に一瞬面食らったようだったけれど、すぐに嘲るような笑みを浮かべた。


「へえ、威勢のいいお嬢ちゃんだな。だがな、その猫、俺たちに渡してもらおうか」

「なんですって?」


予想外の言葉に、思わず素が出そうになる。この猫が、彼らにとって何か価値があるというの? ただの薄汚れた野良猫なのに?


「その猫はな、ただの猫じゃねえんだよ。そいつは『災厄の黒猫』。持っている奴には、不幸が訪れるって曰く付きの代物でな。俺たちは、そういう『曰く付き』の品を高値で買い取るのが商売なんでね」


災厄の黒猫? 馬鹿馬鹿しい。でも、男たちの目は本気だった。彼らは、本気でシャノワールを奪うつもりらしい。


あたしは、シャノワールを抱く腕に力を込めた。冗談じゃない。この子は、あたしの唯一の共犯者。誰にも渡すものか。


「お断りしますわ。この子は、わたくしの大切な家族ですもの」

「そうかい。なら、力ずくでもらうまでだ」


男たちが、じりじりと距離を詰めてくる。雨音が、やけに大きく聞こえた。


(さあ、どうする、あたし? いつものように、涙と演技で切り抜ける? でも、今回は相手が悪すぎる。それに、シャノワールを危険な目に遭わせるわけにはいかない)


その時、あたしの頭の中に、ある「筋書き」が閃いた。それは、あまりにも大胆で、危険な筋書き。でも、成功すれば、この窮地を脱することができるかもしれない。


「ふふふ……面白いことをおっしゃいますのね。この子が災厄ですって? ええ、そうかもしれませんわ。でもね、本当の災厄は、これからあなたたちに降りかかるのですよ」


あたしは、不敵な笑みを浮かべた。女優・天音メルの、命を賭けた大芝居の幕が、今、上がろうとしていた。

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