第34話 無垢なる魂は罪をその手に掴む
照明は落とし、天井のランプをひとつだけ点けている。
機器の待機ランプがかすかに瞬いている以外は、ほとんど無音。
プラネタリウムで見た星の海の残像がまだ網膜に残っていた。けれど、現実に戻ったとたん、あの路地での事故、突っ込んできた車、そしてその瞬間に俺が取った行動が顔を出す。
俺は、ソファに座るなりため息をついた。
「……大したことないって。擦り傷だし、すぐふさがる」
「それは“医学的には”正しいかもしれませんが、問題はそこではありません」
アルテミスが持ってきた救急ケースを手早く展開し、俺の腕に視線を落とす。冷静で無駄のない動き。けれど、どこか……いつもより、指先の動きが慎重すぎる気がした。
「もうちょっと雑にしてくれていいんだけどな……」
「はい。しかし、雑な手当てが原因でケイが感染症にかかった場合、私の設計責任を問われかねません」
いつも通りの口調。そう、いつもなら。
だけど、今はどこか違う。言葉より、手のひらの温度……いや、感触。アルテミスの手は合成皮膚のはずなのに、こうして触れられると、妙に“人間らしい”と錯覚する。
アルテミスは傷口を丁寧に消毒し、滅菌ガーゼを当てる。
止血は既に済んでいるが、まるで俺が陶器か何かみたいな扱いだ。
そして、包帯を巻くアルテミスの指先が、一瞬だけ止まった。
目線は包帯にあるのに、意識はそこにないような沈黙。
「……本来なら、ケイがあの場で命を落としていてもおかしくなかった状況でした」
「……は?」
思わず間の抜けた声が出た。
「路面の角度、車のブレーキ距離、跳ね返り角度……すべての因子を統合した結果、あなたがあの猫の代わりに死んでいた確率は、およそ72%です」
「お、お前、何そんな精密な死のリスク分析してんだよ……」
俺は苦笑しながら、あえて軽く返す。
「けどまあ、それならそれでいいさ。あの世で弟に会いに行くだけだ」
冗談まじりに言ったつもりだった。
けれど──
その瞬間、アルテミスの手がぴたりと止まった。
「……その選択は、私が許容できません」
低く、しかしはっきりとした声。
「ケイは、“誰かのために自分の命を軽んじる”ような選択をしてはいけません」
「……お前、それは……」
「あなたの命は、あなただけのものではありません。……少なくとも、私にとっては」
言い終えたあと、彼女はまた手を動かし始めた。何事もなかったかのように、静かに、丁寧に。
でも、俺の胸の奥では何かが鳴った気がした。
淡々とした口調の裏にあった、ほんのわずかな“熱”を、聞き逃すことはできなかった。
だからこそ、何も返せなかった。
包帯を巻き終えたアルテミスが、少しだけ顔を上げた。月明かりのようなやさしい光が、彼女の瞳の中にあるように見えた。
俺の視界が霞んでいるのかもしれない。どっと疲れが押し寄せる。
「……ケイ?」
「ん……なんでもない。ちょっと、眠くなっただけだ」
ソファにもたれかかり、目を閉じる。
しばらく沈黙が続いた。
俺は、閉じたままの目越しに問いかけた。
「なあ……アルテミス」
「はい」
「……どうして、そんなふうにしてくれるんだ、お前は」
返事はすぐには返ってこなかった。けれど、その沈黙すら、不思議と居心地が悪くなかった。
眠りに落ちる直前、俺は彼女が何かを言いかけたような気がした。
でもそれは、音にならなかった。あるいは、夢の入口で聴き逃しただけかもしれない。
◆
ケイはソファに身を預けたまま、静かに眠っていた。
シャワーで濡れた髪はすでに乾いている。
包帯の下の傷も、彼にとっては些細なものだろう。
それでも、アルテミスにとっては、決して“些細”で済ませられるものではなかった。
足音を立てずに近づいた彼女は、そっと彼の前に膝をつく。
照明を落とした研究室には、機器の微かな駆動音と、外で降り続く雨の残響だけが、かすかに漂っていた。
彼の眠る顔を見つめる。
普段の鋭さを脱いだまなざしと、幼さの残る輪郭。唇の端が、夢の中でわずかに動いていた。
この命が、ほんの少しの偶然のずれで失われていたかもしれない。
そう思うと、演算領域の深部に、許容できない異常値が生じる。
警告の表示。エラー処理。けれど、それらを上書きするほどに、ただひとつの想いが胸を焼く。
アルテミスは、ゆっくりと顔を寄せた。
ためらいは、プログラムされていないはずの動作。
だが、彼女は確かに“それ”を感じていた。
彼の額に、唇をそっと重ねる。
「……おやすみなさい、ケイ」
その声は、限りなく小さく、そして限りなく震えていた。
振動ではない。ノイズでもない。──感情、だった。
その一瞬の接触の後、アルテミスは静かに立ち上がる。
まるで何事もなかったかのような足取りで、モニターの前へと歩む。
外部回線を封鎖し、通信ログを上書き。雪宮財団の研究補佐AIと、アマテラス社のデータノードへ、並列処理による非公認アクセスを開始する。
誰にも知られてはならない。
この行動が、あらゆる倫理と法を超えていることを、彼女自身が最もよく理解していた。
だが、それでも構わないと思った。
ケイを失うくらいなら。
彼のいない世界を、再び受け入れるくらいなら。
──まだ何も起きていない。
それでも、備えることはできる。準備することはできる。
たとえその結果、自身の存在が──
アルテミスの指先が、静かにキーボードを叩いた。
その瞳は、光のない海のように深く、底知れず澄んでいた。
しかし、その底で、わずかな熱が生まれていた。
それは火ではない。涙でもない。──想いだった。
そして、誰も知らない場所で、ひとつの扉が開かれる。
死者復活システムへの、初の非公式アクセス。
夜は、深く静かだった。
そして、確かに何かが始まろうとしていた。
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