パン屋の角を曲がれば

しのの のん

第1話 観測者の序章

パン屋の角を、右に曲がった。

ただそれだけのことだった。

誰もが見逃すほど些細で、意味のない動きのように見えた。

だがその瞬間、銃声は未来から消え去り、世界は異なる軌道を歩み始めた。


私は、その分岐を見ていた。


私は誰でもない。名もなく、形もなく、ただ観測する存在。

あなたがふと立ち止まり、歩幅を変えるその一瞬の中に。

あなたが口を開き、言葉を言うか言わないか、その狭間に。

私はいる。

世界の継ぎ目のような場所に、音もなく在る。


世界が分かれる音を、私は知っている。

それは衝撃音ではなく、静寂の中に溶けた、ほとんど感知できない「沈黙の変化」だ。

言葉にすれば、たとえば「違和感」。

たとえば「間」。

たとえば、パン屋の角で起きた、あの小さな方向の違い。


1914年6月28日、日曜日の朝。

オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナントが、ボスニアの首都サラエボを訪れた日だ。

彼が妻ゾフィーとともにオープンカーに乗り、市街を行進するということは、前日から新聞でも報じられていた。

だが同時に、その安全を危ぶむ声も、低く囁かれていた。


バルカン半島は、当時すでに「火薬庫」と呼ばれていた。

帝国、王国、独立国家、秘密組織、宗教的分断、民族の誇りと屈辱。

見えない火種は、乾いた空気のなかに満ちていた。

ほんの小さな火花で爆発することを、誰もが知っていながら、それを止められる者はいなかった。


だが街は、いつものように朝を迎えた。

サラエボの空は、少し曇っていた。

6月というには肌寒く、昨晩の雨が石畳に湿気を残していた。

白い霧が川沿いに漂い、ミリャツカ川の流れは濁っている。


この都市は、かつてオスマンの支配下にあった。

東方と西方、キリストとイスラム、教会の鐘とミナレットの呼び声が混ざるこの場所には、独特の「ひずみ」がある。

人々は微笑みながら互いを監視し、礼儀正しく会釈を交わしながら、胸の奥では警戒を解かなかった。


街の通りには、オーストリアの旗が掲げられていた。

赤と白の布が窓の端からたらされ、兵士たちの足音が一定のリズムで鳴り響いていた。

だが、心からの歓迎はそこにはなかった。

市民の目には疲れがあり、浮ついた祝祭の気配はどこにもなかった。


一人の少年が、そんな通りをパン籠を抱えて歩いていた。

アントン。パン屋の息子で、17歳。

朝4時に起こされ、父とともに生地をこね、石窯に薪をくべ、ようやく焼きあがったパンを店頭に並べる。


湯気の立つ丸パン。塩をふった硬めのクーヘン。

それらの匂いが店先を包むと、通りを歩く兵士や、教会に向かう老婦人が立ち寄っていく。

戦争も帝国も、アントンにはまだ遠かった。

彼にとって世界とは、「今日の焼き加減」と「小麦粉の仕入れ値」のことでしかなかった。


その日も変わらぬ朝を迎えたはずだった。

だが、ふと見ると、店の前に見慣れない青年が立っていた。


痩せた体、煤けた帽子、薄汚れた上着。

何より、何かを我慢しているような目つき。


「兄ちゃん、パンいるのか?」


声をかけると、青年はゆっくりと顔を上げた。

その目に、ほんの一瞬だけ、迷いが走ったのを私は見た。


彼の名は、ガヴリロ・プリンツィプ。

セルビア系ボスニア人。十九歳。

山間の貧しい村で生まれ、幼い頃から病弱で、孤独だった。

だが彼は、文字を知り、本を読み、世界の「不条理」に早くから気づいていた。

フョードル・ドストエフスキー、ニーチェ、ペトロヴィッチ――

思想は彼に救いを与え、同時に破壊の美学を植え付けた。


彼のポケットには拳銃があった。

朝からそれを触っていた。

その冷たさだけが、自分がまだ現実にいることを確かめてくれる。


仲間はすでに散っていた。

予定されていた爆弾は失敗に終わったと聞いた。

残るは、自分ひとり。


街のどこかに、今も皇太子はいる。

その妻とともに、馬車のような車に乗って。


――だが、通るか?

本当に、自分の前を通るのか?

もしそうなったら、自分は撃てるのか?


その問いは、朝からずっと彼の中で巡っていた。


「パン、食うか?」

アントンがもう一度訊いた。

プリンツィプは、静かにうなずいた。


パンは温かく、指先がほぐれるようだった。

だが心の中の何かは、より硬く冷たくなっていた。


そのころ、街の中心部では皇太子の車列が、予定より数分遅れて動き出していた。

フランツ・フェルディナント――オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子。

威厳に満ちた立ち姿。だがその目は、常に何かに疲れているようでもあった。


彼は帝国の中でも特異な存在だった。

民族の融和を訴え、多民族国家の連邦化を掲げていた。

軍部や宮廷保守派には敬遠され、皇帝フランツ・ヨーゼフとの関係も冷え切っていた。

それでも彼は、頑固に「自らの正義」を貫こうとしていた。


隣に座るのは、ゾフィー。

平民出身でありながら彼の愛を貫いた妃。

その存在は、政治的には無力だが、彼の心を支える唯一の安定だった。


市街地を走る車列は、簡素なオープンカーで構成されていた。

装甲もない。防弾ガラスもない。

皇太子は「民と目線を合わせる」ために、あえてそれを望んだ。


警備は手薄だった。

警察も軍も、「今回は大丈夫だ」と言い聞かせていた。

事前に投げられた爆弾が外れたときでさえ、ルート変更はなされなかった。


通りの端で、誰かが「バンザイ」と叫んだ。

それは祝意だったのか、合図だったのか。


だが車列は、ただ滑るように進んでいく。


私は、ここで世界が「分かれはじめた」のを感じた。


プリンツィプの手が、ほんの少しポケットに入る。

だがそのとき――


運転手が道を間違えなかった。


本来なら、彼は動揺し、パン屋の角に曲がる。

史実の世界では、そうだった。

そして、プリンツィプの目の前に皇太子夫妻が現れ、

距離2メートルで、引き金が引かれる。

一発目は首。二発目は腹。

世界は、一気に音を失った。


だがこの世界では、違った。

運転手は予定通りのルートを走行した。

角を曲がらず、パン屋の前を通らず、静かに去っていった。


その瞬間、プリンツィプの心の奥に空洞ができた。

何かが自分の手から滑り落ちたような、むなしい感覚。


何も起こらなかった世界。

何も壊れなかった世界。


私はその静寂を知っている。

そして、知っているからこそ恐ろしいのだ。


なぜなら、何も起きなかったということは、

「まだ起こっていないだけ」かもしれないからだ。


観測者の私は、パン屋の角に降り立つ。


誰にも見えない。

誰にも聞こえない。

だが、あの場にいた全員の心のどこかには、私の気配が残っていたはずだ。


アントンは、パン屑を払っていた。

プリンツィプは、手を握ったまま動けなかった。


「兄ちゃん、冷める前に食えよ」


アントンの声が、世界の裂け目を縫うように響いた。


一つの世界では、その声の直後に銃声が鳴った。

一つの世界では、その声の後に、ただ昼が過ぎた。


バタフライ効果――

一匹の蝶の羽ばたきが、大陸の風を変えるように。

一人の青年の歩幅が、歴史の色を変えることがある。


私は、それを見届ける。


そしてあなたに問う。


あなたがあの日、パン屋の角にいたならば。

もし誰かに道を尋ねられたならば。

右を指しただろうか?

左を?

それとも、何も言わなかっただろうか?


この物語は、そこから始まる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る