第32話 観察者と再調整

朝。

鏡の前で、ふと思った。


(俺に命じる。今日一日、自信を持って生きろ)


【対象:自身】

【支配開始】

【残り時間:10分00秒】


……瞬間、視界が歪む。


気づけば、白く霞んだ空間に立っていた。

無音。無風。無重力のような浮遊感。


背後に気配。


振り向くと、黒い人影がひとつ。

輪郭は曖昧で、全身が煙のように揺れていた。


「へぇ、やったね。自己洗脳。なかなかレアだよ、君みたいなのは」


声は中性的で、どこか遊んでいるような響きだった。


「俺は“陰”。この力の観察者。娯楽が目的だよ、基本は」


「この空間は?」


「バグ。自分に使う想定なんてなかったからね。

 まあ、見つけた以上、ちょっと調整させてもらうけど」


黒い人影は、指を一本立てた。


「まず、過去に関わった対象者の“力に関する記憶”は完全に消す。

 特に“違和感で修正された記憶”とか、そういうのも。

 もう矛盾は起きない。全部、消すから」


「……それだけで済むのか?」


「済まないよ。だから追加で調整。

 “発動中の記憶”も、完全に消去されるようにした。

 ぼんやり覚えてたとか、後から曖昧に思い出すとか——なし。ゼロ。

 でもね、“ぬくもり”とか、“触れた感触”は……残るようにしてある。

 そういうの、あとで効いてくるから。伏線だよ」


【残り時間:00分47秒】


陰はふと肩をすくめ、また指を立てた。


「あと、もうひとつ。願望を増幅させる設定も入れといた。

 命令された相手は、心の奥の欲望が強くなる。

 キスしたいとか、抱きしめたいとか、匂い嗅ぎたいとか……

 君が言葉にすれば、きっと素直になるよ?」


「……それって」


「うん、面白いでしょ?」


陰は、ふっと笑うような気配を残しながら消えていった。


【支配終了】


洗面所。

俺は鏡の前に立っていた。


目の奥が少しだけ揺れている。

何も思い出せない。でも、何かが胸に残っていた。


(願望……ぬくもり……)


指先が、少し熱かった。

それが“記憶にないはずの何か”を、

確かに感じさせていた。

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『洗脳5分間ラブコメ ~俺はまだ、誰のものでもない~』 ねこまんま @aki4613

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