第11話 あなたは、命令しなくても優しい人なんだね

静かな音楽室。


誰の足音も聞こえず、空気はやわらかく、ピアノの旋律だけがゆっくりと響いている。


「……落ち着いた?」


桐島陽乃は、譜面も見ずに鍵盤を弾きながらそう言った。


「……ああ、少しだけ」


「よかった。逃げる時って心の音がうるさくなるからね」


「心の、音?」


「うん。音楽ってそういうの拾うんだよ。弾いてるとわかるの。“この人、抱えてるな”って」


---


俺は彼女の横の椅子にそっと腰を下ろした。


「君は、いつもここに?」


「ううん。今日がたまたま」


「……じゃあ、俺が来たのもたまたま?」


「ううん。それは必然」


陽乃はそう言って微笑んだ。


「心が擦れてる人って、音に吸い寄せられるの。静かな音を求めてね」


---


沈黙が心地よく流れる。


誰にも責められず、選ばされず、何かを要求されない時間。


俺はいつの間にかポツリと呟いていた。


「……俺、最近ずっと“選べ”って言われてて」


「うん」


「選んだら誰かが泣く。でも選ばなきゃそれも責められる。

……だったら、誰も選びたくなくなるよな」


「うん。だから逃げてきたんだよね」


俺は言葉を失った。

彼女は、まるで俺の内側を見ているようだった。


---


「ねえ、綾城くん」


「……なに?」


「あなたは命令しなくても、ちゃんと優しい人なんだと思うよ」


「……なんでそう思う?」


「“使ってない”から。きっと、その力を」


その言葉に、思わず息を呑んだ。


「……もしかして、君……」


「知ってる、なんて言ってないよ?」


そう言って、陽乃はまたピアノを弾き始めた。


「でも私は好きだな。自分の言葉で話してくれる人」


旋律は、少しだけ切なさを帯びていた。


その音に、俺の中の“言葉にできなかったもの”が少しずつほどけていく気がした。

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