人面灯花

霧朽

奇跡

 灯花とうかさんの恋人を名乗る人物から連絡があったのは、彼女の死から一週間後のことだった。揺れるスマホを手に取り、私は「ああ、バイトの面接今日だったっけ」とその見知らぬ電話番号に応じた。


結月ゆづき莉子りこさんですか?」


 聞き覚えのない、若い女の人の声だった。のしかかっていた憂鬱と悲しみを追いやって、頭の中に戸惑いが生まれる。一瞬、躊躇ったけれど、私はそれを認めることにした。


「そうですが……」

「私は名取なとり伊織いおりと申します。雪月ゆきづき灯花の恋人でした」


 『雪月灯花の恋人でした』。何度も頭の中で繰り返し、回数が両手で数えられなくなったとき、私はようやくその言葉の意味を理解した。


 雪月灯花。私の恩人で、私の友人。


『こんなどうしようもない私を見つけてくれてありがとう、みんなにいいことありますように! ばいばい』


 そんないつものように句点のない文章を最後に、彼女は私たちの前から姿を消した。SNS上では親交のあった人たちがお別れの言葉を書き込んでいたけれど、私はどうにも彼女が死んだという実感が湧かなくて、お別れの言葉どころか、泣くことすらできないでいた。自分の薄情さを誤魔化すように、手首からは血を流して。


 灯花さんと私が出会ったのは四年前、彼女は大学二年生で、私は高校一年生の頃だった。 

 人間関係が上手くいかず深夜のネットの海に放流した、大量の病んだ書き込みに彼女だけがハートマークを押してくれた。当時の私にはきっと人との会話が足りていなくて、記号を介した感情のやり取りがひどく染みたのを覚えている。


「生前、灯花が最後まで連絡を取ってたのが結月さんだったんです。もしよろしければ、あの子のお墓に訪れてはくれないでしょうか」


 感傷から連れ戻すように伊織さんの言葉が響いた。


「あ、えっと。その……」

「急なことですし、お時間が必要だと思います。なので、もし訪れてくれるのであればここに連絡をお願いします」


 状況がまだ飲み込めないで何も言えないでいる私を見かねてか、連絡先を言い残して彼女は電話を切った。

 私はしばらくの間その場から動けないでいて、結局、彼女に肯定の意を示すメッセージを送ることができたのは、翌日の夕方のことだった。


 伊織さんからの返信は早く、幸いにもお互いの休みが合う日があったようで、話はトントン拍子に進んだ。


『連絡ありがとうございます。私も水曜日なら空いてるので、そこでどうでしょうか』

『それでお願いします。誘ってくれてすごく嬉しいです。ありがとうございます。(それと、敬語じゃなくて大丈夫ですよ)』

『(じゃあ遠慮なく。莉子さんは楽な方でお願い)お礼を言うのは寧ろこっちの方なんだけどね。ありがとう、灯花と友達になってくれて』


 私は何も――と途中まで打った文字を消す。私は何もしていない。そんな言葉を一番近くにいて、一番無力感に苛まれているであろう伊織さんに吐けるわけがなかった。


『私の方こそ、灯花さんにはお世話になりっぱなしでした』

『可愛い妹分ができたって嬉しそうに話してたよ。昔の自分に似てて放っておけなかったって』


 その言葉を聞いた私は気恥ずかしさやら感謝やら悲しみやらで訳が分からなくなってしまって、それ以上の返信はできなかった。



 それから数日後、通勤ラッシュ後の人の少なくなった駅前広場で伊織さんを待っていると、すぐ近くの道路に白の軽自動車が止まった。


「莉子さん」


 電話越しに聞いた声が耳を刺す。黒のスーツに身を包んだ伊織さんが運転席から身を乗り出していた。


「よろしくお願いします」


 助手席へ乗り込むと、灯花さんが好きだったバンドの曲が流れていた。心がキュッと締め付けられたけれど、やっぱり泣けなくて、私は自分の薄情さに手首を握った。


 道中、伊織さんは私の疑問に丁寧に答えてくれた。灯花さんは大量の睡眠薬を甘ったるいだけのウイスキーで流し込んで死んだこと。遺書とかはなくて、突発的なものだろうということ。現実での付き合いが薄い人だったから、家族と伊織さんを除けば、私が一番親しかったであろうこと。


 そして、少しだけ私の話もした。私を不用意に傷つけてしまわないようにというよりは、灯花さんに代わって私の理解者になろうとしてくれたのだと思う。それが申し訳なくて、そして何よりもう一度大切な人を失ってしまうのが怖くて、強がってみせると、伊織さんは笑って言った。


「灯花の責任を取ろうとかそんなんじゃないんだ。私が莉子さんを大事にしたかったから、私は貴方を誘ったんだよ。傷の舐め合いって言われたらそれまでだけどさ、これも灯花のくれた縁だと思うから。……大丈夫、私はいなくならないよ」


 そう言われてしまえば話さない理由もなくて、私はポツリポツリと悩みや不安を話したのだった。精神的に不安定で社会に適合できない同性愛者。言ってしまえばそれだけのことを随分長い時間をかけて喋っていたように思うけれど、伊織さんは文句も言わず親身になって聞いてくれた。


 私なら兎も角、どうしてこんないい人を置いて逝ったの。そう灯花さんに問い詰めたくなるくらい優しくて、彼女への愛に溢れている人だった。

 人混みを避けた時間帯を選んでくれたこと、私を大切にしたいと言ってくれたこと。私は自分のことで手一杯で優しくする気力なんてないのに、一番辛いはずの伊織さんに気を使わせてしまっている自分が嫌だった。


 車を降りると、蒸し暑い風が肌を撫でた。空は厚い雲の層に覆われていて、そう遅くない内に雨が降り出しそうだった。雨に振られない内にと、私たちは灯花さんのお墓を目指して坂を登った。


「ここだよ」


 そう言って、伊織さんが立ち止まる。『雪月家之墓』と書かれたその墓石の脇には墓誌が置かれていて、知らない人の名前に並んで『雪月灯花』の文字が命日やら何やらとともに刻まれていた。それはどうしようもないくらい彼女が死んでしまったことを示していて、それを見て私はようやく灯花さんの死を実感したのだった。


「……ああ、そっか」


 灯花さんはもういないのか。話せないし、触れられない。きっと、あとは忘れていくだけなのだ。ふわふわと揺蕩うような声色。笑うと細められるまん丸の目。暖かくて少し小さい手のひら。サボンの香水。それは、もう笑わうことのない貴方のこと。


 壊れてしまわないようにと乖離していた身体と感情が一致して、私はその場に崩れ落ちた。涙が溢れて止まらない。お腹と世界がぐるぐる気持ち悪くて、吐き気がした。愛も、嫌悪も、疑問も、怒りも、思い出も、全部が全部、ぐちゃぐちゃの綯い交ぜで、もう何のために泣いてるのか分からないくらいだった。


「大丈夫だよ。大丈夫」と伊織さんの手が優しく私の頭を撫でる。


 それに安心してしまって、私は一層泣いた。泣いて泣いて、泣き喚いて、体の水分を全部出し切ったんじゃないかと思うくらいの涙を流して、私はようやく泣き止むことができた。


「落ち着いた?」


 伊織さんの言葉に小さく頷くと、掠れた声で私は言った。


「ありがとう……ございました。今日ここに来なかったら、きっと灯花さんのこと、よくあるネット上の別れの一つとして忘れてたと思います」

「そっちの方が辛くないかもしれないよ?」

「辛くても、忘れたくはなくて。忘れられたら、良かったんですけどね」


 私はにへらと笑った。

 『私のことは忘れて幸せになって』。灯花さんならそう言うだろうけれど、私は彼女を忘れてあげるつもりなんてなかった。一人の幸せよりも二人の不幸を。そんな自己満足が私と灯花さん、二人の償いだった。


「……忘れられたら、いいんだろうなあ」


 思い出を懐かしむように伊織さんが呟いた。

 彼女は灯花さんと十年来の付き合いだと言っていた。私よりもずっと濃くて長い時間、向き合ってきたのだ。忘れたくても忘れることなんてできないだろう。きっと彼女の心には灯花さんの形をした穴がずっと空いたまま埋まらない。


 あるいは、その穴の形を少しづつ変えていくことはできるのかもしれないけれど、それは忘れることと何が違うのだろうか。前を向くことと、忘れること。その違いが、今の私には、分からない。


 この人に恩返しをしたいと思った。多分、私なんかに救える人ではないし、私なんかに救われたくはないだろうけれど、それでもと。


「伊織さん。頼りないと思いますけれど、私にできることあったら何でも言ってくださいね」


 彼女は少し面食らった表情をしたあと、目尻にシワを作ってクシャリと笑った。


「もう、十分救われてるよ。こうして灯花との思い出を共有できて、あの子にも確かな幸せがあったってこと知れたから」


 力強く頭が撫でられる。それが何だか嬉しくて、心に暖かい感情が生まれたのが分かった。そして同時にズキリと胸が痛むのも。


「疲れただろうし、寝てていいからね」


 車に戻り、一息ついたところで伊織さんの言葉が鼓膜を揺らした。

 この人のそばにいたい。そう思った。嘘、ほんとうは隣で、生きているときは「生きてくれてありがとうございます」を、もし死んでしまっても「お疲れ様です。良く頑張りました」を言いたかった。


 もし伊織さんとこの先も関わって生きていけるとしたら、それは灯花さんがくれた、それこそきっと奇跡のようなものなのだと思う。私たちは傷なしでは出会えなくて、けれど出会ってしまったら好きでいないことなんてできなくて。灯花さんが生きたままで、出会わなければ良かったね、なんて思ってしまってまた泣きたくなった。


 ねえ、灯花さん。どうして私は貴方の愛した人と笑い合っているんですか。

 私は、貴方の愛した人を愛してもいいのですか。

 この気持ちが、傷の舐め合いなんかじゃないと。そう言えるだけの理由はありますか。


 ひどく歪で、ひどく歪んだ関係だった。


 先のことは何にも見えないし、懐かしさに縋ろうとして見るのは辛さがつきまとうようになってしまった灯花さんのことだ。とてもとても寝れるような気分ではなかったけれど、泣き疲れた体は睡眠を求めていて、暖かさと苦しさを抱えたまま、私の意識は眠りへと落ちていった。

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人面灯花 霧朽 @mukuti_

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