ユレヒカリ
ハヤシダノリカズ
揺灯
カーラジオから流れていた行進曲のようなそのリズムにオレはハッと目を開く。ヤバイ。寝てた。反射的にブレーキを踏み、ガードレールに擦りかけた車体をハンドルで制動し、路肩に停車させる。
まどろみから覚めた瞬間に前方とバックミラーを確認して一連の動作をやってのけた自分を褒めると同時に「なにやってんだ、オレ……」と自嘲が口からこぼれる。ため息ひとつと共に。
オンボロ車のカーステレオには時刻が表示されている。午前二時。周囲には人影も走る車もない。何秒、何分、眠った状態でアクセルを踏んでいたのか分からないが、不幸中の幸いだ。なんとか事故を起こさずに済んだ。
いや、こんな田舎道、こんな時間だ。事故ったとしても自損事故だっただろうに。
いや、こんな時間まで残業に追われて、二、三時間寝に帰るだけのこんな人生、眠ったままに終わらせた方が幸せだったかもな。
カーステレオからメロディが耳に入ってくる。行進曲のリズムで、どうやら世の不条理を歌っているらしい。まるで、社員はどれだけすり減ろうが構うものかと酷使する会社と、そこで生きているオレの事を歌っているようだ。そうだよ、得をするのはいつだってズルが出来る立場に自分の身を置いた奴等さ。ズルを悪徳、愚直を美徳として生きる事しか出来ないオレみたいな人間は嘲笑われていいように使われるだけさ。それは分かってる。
胸ポケットから煙草を取り出し、一本咥え火を付ける。肺に煙を取り入れると同時にサイドガラスにその灯りが映り込む。
ヘッドライトを消すと、ハザードランプを点滅させている事に気が付いた。どうやら無意識にスイッチを押していたようだ。カッチカッチと音を立てているハザードランプの光はオンボロ車の前後で田舎道を明滅させている。
サイドガラスに映る煙草の灯りはオレの肺と連動するように光を強めたり弱めたりしている。その光がチラついて見える。ハザードの明滅と煙草の明滅、ふわりと強く灯りふわりと弱く灯る光がサイドガラスの向こうにチラついている。目がおかしくなったのかとオレはワイシャツの袖で目をぬぐって、もう一度真横に目を凝らす。チラつく煙草の灯りと思ったそれは、よくよく見れば黄緑色の光。
蛍、か。
蒸し暑くなってきたとは思っていたが、蛍の季節だなんて思いもしなかった。暑い寒い以外の季節を思ったのは久しぶりだ。
オレは煙草を咥えたまま車を降りた。ハザードの明滅に合わせるような黄緑色の明滅は辺りを見渡すと少なくない。この辺りには通り雨でもあったのだろうか。雨の後のにおいがしてる。おそらくは川もあるはずだ。これだけの蛍が飛んでいるんだ、そうに違いない。
街灯もない整備不良の田舎の歩道を歩く。やはり雨が降っていたようだ。
遥か彼方の銀の鏡を見上げたその拍子にオレはバランスを崩して尻もちをついた。もしもアイツが今この時間に、オレと同じこの月を見上げていたとしたら、あの銀の丸の中に今のアイツが映ってくれたりしないものか……、そんな思い付きが尻の痛みを感じさせなかった。
アイツとは別れてもう何年にもなるのにな。
こんな時間に起きているような今のアイツであって欲しくはないのにな。
脇をふわりふわりとすり抜けていく何匹かの蛍に促されるようにオレは立ち上がり、前へ足を進める。どこへ向かうでもないが、蛍が飛んでいく方へふらふらと歩く。
気が付くと辺りは数万匹とも思える蛍の光に満ちていた。こんな所にこれほどの蛍がいるなんて知らなかった。頼りない光もこれだけ集まると圧巻だ。近くには彼らにとって最高の川があるに違いない。まさかあの水たまりがそうではあるまい。
オレは前方の大きな水たまりを見てそんな事を考えた。風のない真夜中のその水たまりは月を映し、飛び交う蛍のその光の軌跡をトレースしている。
しかし、妙だ。飛び交っている蛍の光に比べて、水たまりに映っているその軌跡はあまりに少ない。オレはその水たまりにゆっくりと近づく。その表面に波を起こさないように。
水たまりのギリギリに立つ。水平方向に目をやれば数万匹の蛍。でも、水たまりに目をやると数万はおろか、多くて数十匹の蛍しか映っていない。どういうことだ? 月の光が強すぎて蛍の光は水面には映りにくいという事か? オレはしゃがみこんでその水たまりを凝視する。
満月の月明かりの下で、オレは気づいた。
水面にはオレが映っていない。
振り向くと、そこにはオレの身体が横たわっていた。
そうか。
尻もちをついたあの瞬間に、オレはこの、水面に映らない数万の光の一つになったんだな。
そうか。
それならせめて、と、オレは月に近づこうと空を見上げる。アイツを見せてくれそうな月に向かう。
黄緑色の、一筋の弱い光となって。
ユレヒカリ ハヤシダノリカズ @norikyo
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