第2話
あの日、久浩は寮の非常口から見た光景が忘れられない。
4階建ての社員寮、その最上階の踊り場から見た光景……、
見慣れたはずの神戸の街は、消え失せていた。
朝6時、いつもなら神戸の街は眠っている。
不夜城の街はどうなったのだと思った。
それがやがて夜が明けるにつれ見えてきた。
あさあけの光りの中に浮かぶ、高倉山から須磨へいたる美しい稜線が、なぜかモクモクと立ち昇る黒い煙に侵されていた。
街のあちこちで火の手が上がっていた。
だがよく見れば、その火は会社の方角に集中しているような気がした。
空が黒煙で覆われ、日が登るにつれ無残な街が浮かび上がった。
それからひと月、ふた月、み月……、
足が宙に浮いたように己の存在意義を疑った。
自然の脅威を前に、なにも出来ない己がいた。
幸い久浩の勤める菱崎造船の工場は、復旧の目途が立った。
倒れた大型クレーンを起こし、船台からずれたブロックを立ち上げた。
まるで爆撃されたような事務所棟も、今は整然とした配置を取り戻している。
だが春の訪れに華やぐ世間とは違い、神戸の人々の表情は、どこかに歪が残る。
一度受けた心の傷は、宿酔いのように身も心も疲弊させた。
今も多くの人は電車を乗り継ぎ、瓦礫の中を歩いて通勤する。
道中街に残る爪痕を見る度、底知れぬ不安を覚えるのだった。
久浩は、寮から兵庫区の会社まで歩いて通っていた。
私鉄も復旧を急いではいたが、まだまだブツ切りで、異なる会社の電車を乗り継ぐよりも、歩いた方が早いくらいだった。
震災以来、隣の天野とは連れだって通勤することが多くなっていた。
同期入社で関西の経済大学を出た天野は、購買部の所属だった。
大学時代からラグビー部の出身という割には、華奢な体をしている。
だが服の下はいかにもマッチョな体だった。
ある日、仕事帰りに久浩は、天野と2人で国道沿いを東へ向かって歩いていた。
海岸通り沿いを走る高速道路の壊れた橋脚を見上げながら、天野が不安気な顔をして呟いた。
「三浦……、うちの会社、大丈夫かな?」
震災の激しさを物語る、曲がった鉄筋が剥き出しの橋脚を見ながら、天野はそう言った。
「なんで、なんかあったのか?」
「いや、このまま工場を閉鎖するかも、知れないって……」
「誰が――、誰がそんなこと言ってんだ」
「購買におると、色々言う業者がな……」
天野が言うには、大阪の商社の人間が来て、震災で受けた被害を復旧させるより、このまま造船所を閉鎖して、他の工場へ集約した方が良いという話があると、聞いたらしい。
口の軽い天野だが、根も葉もない噂を広めるほど、いい加減な男ではない。
震災後の片づけた一段落して以来、何度か互いの部屋で酒を飲み、寮の復旧にも力を合わせてきた。
久浩の持つ天野の印象はすこぶる良く、ある意味、彼との出会いに感謝していた。
その天野が言う話の信憑性を、久浩は疑ってはいない。
だが彼をしても、どこか自分自信の不安が口をついて出てきている。
それだけ彼が、心をさらけ出しているのだと思った。
「おい――、どっか寄って、飯でも食っていこうか」
久浩はそう言うと、国道沿いの道を外れて、元町の駅前から小路地へ入っていった。
それは久浩が、神戸へ来て初めて入った食堂のある方角だった。
「俺、去年の春、この先の元町食堂っていう店へ初めて入ってな。その時、神戸というか、この会社へ入って良かったって、思った店なんや」
「へえ――なんでや、そんなに美味いのか?」
「いや、そうじゃない。まあ美味いことは美味いんだけど」
「ふーん、ひょっとして、可愛い子でもいるのか?」
「馬鹿な――、話を飛ばすな」
「なんだよ、もったいぶらんと早く言え――」
「初めて店に入って、勘定払おうとしたら、いつでも良いって、おばさんが」
「なんやそれ。勘定はいいって……つけでいいってか?」
「そう、給料もらってからでいいって」
「なんでや――」
「このバッジ見てさ、菱崎重工さんでしょって」
久浩はそう言いながら、上着の襟付けた会社のバッジに手をやった。
「ええ――、うちの会社って、やっぱそうか」
そう言って天野は笑う。久浩は、まるで屈託のない彼のその笑顔にほっとした。
(つづく)
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