シンボリック11



 とりたてて読書が好きなわけではない。母も全く読まないので、家には蔵書が積まれたままである。父は相当な読書家だったようす。哲学書のほかにも、日本文学全集やフランス文学作品がずらりと並べてあった。母はわからないなりに、これらを父の形見として持ってきたのだろう、その無知さがなんだかいたたまれなくなった。

 小林くんが図書委員だと聞いてから、足しげく図書室に通うようになったのは、我ながら単純明確ではずかしい。小林くんは毎週金曜日の放課後、ひとりでカウンターに座っている。なにをするわけでもなく、窓の外を眺めている。わたしはそれをカフカやカミュの間からそっと見ている。ときどき、目が合う。言葉を交わす。べつにたいしたことのない内容だけれど。

「恩田の名前って、珍しいよね」

「わたしの名前?」

「らかん、って」小林くんが言った。その発音が、声色が、わたしをどぎまぎとさせる。らかん。らかん。頭の中で反復される音を聞いていると、なんだか「らかん」という響きが自分のものでないような気がしてくる。小林くんの発する「らかん」は吉田先生のそれとも、稲葉のそれとも、母のそれともなんだか違う。やさしい音。何も求めてこない音。そのままでいいのだと肯定されているような響き。らかん。

 その音はわたしであるというどうしようもない、疑いようのない事実。

「フランスの哲学者の名前らしいの。ジャック=マリー=エミール=ラカン。父が好きだったんだって」わたしは言った。

「さすが恩田。難しいこと、たくさん知っているんだな」

「そんなことない、なにも知らないよ」

 小林くんはゆっくりとわたしを見た。大きくて茶色い瞳。見透かされそうだ。穏やかで優しくて、繊細で、小林くんの声。小さな声。

「恩田のお父さんってどんな人なの?」

「え」

「おれ、父親いないから、お父さんっていうのがよくわからないんだよな」

 父親。小林くんの言葉に、わたしの言葉も詰まってしまう。父親。それは〈オンダ〉だ。どういう人だったのだろう。オンダシュンスケ。切れ長の目。うすい口元。細い輪郭。わたしとそっくりの男の人。わたしが生まれたころに死んでしまった。母がとくべつに愛した人。あの、この世のものとは思えないくらいに美しい、母が唯一愛した人。大学院で数学を学んでいたらしい。母に、いろいろな本の知識を与えたらしい。わたしはそれしか知らない。母の伝聞でしか、父のことを知らない。そして、

「なんか、自殺したらしいんだよね。理由はわからないけど」

「ごめん」

「謝らないで。わたしも赤ちゃんで全然覚えていなくて。よくわからないんだよ。父のこと」

「自死で亡くなられたんじゃ、新聞記事が出ているんじゃない」

 小林くんがカウンターの下を漁った。そうか。図書館になら残っているかもしれない。知りたい。父のこと。わたしがこんなふうに母に疲弊している、その根源となった父の姿を知りたい。カウンターに入る。小林くんと距離が近くなる。深い息遣いが聞こえる。時がとまる。小林くんの長いまつげ、灼けた横顔。わたしは息をのむ。この光景を、わたしはこれから一生忘れないだろう。わたししか、わたししか知らない小林くんの横顔。

「だめだ、高校だから地元の事件史とか切り抜きとかしかないや。もっと大きい図書館じゃないと見つからないな」

「県立図書館じゃないと…」

「そうだね」

「ここからどれくらいかかるかな?」

「飛行機で一時間だな」

「……土日に、行こうかな」

「バイト代、出すよ」はっとして小林くんの顔を見た。小林くんは顔を背けていた。耳が赤い。わたしは「それって」と声に出す。小林くんはよそを向いたまま、

「一緒に行こう」

 と言った。小さな声だった。うん、とわたしは声にならない声でうなずいた。



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