【01】大聖堂の戦い


 世界の理を統べる女神を崇める教会の威光は計り知れない。とりわけ、その頂点に座する法皇の言葉は長く人々の道義的基盤とされてきた。ときには、彼の何気ない一言が国際情勢にすら影響を与える事があった。千年続く民族間の争いを終結に導き、数百万の命が失われかねなかった大国同士の戦争を未然に防いだ事もある。

 そんな平和と秩序の象徴を魔王クシャナガンが無視するはずもなかった。

 世界の中央にあるとされる大陸“ウンビリクス・ムンディ”に所在する教会の総本山“法皇庁”

 その中でも一際、荘厳華麗な佇まいを誇る大聖堂では、普段の静謐せいひつさとは掛け離れた空気が漂っていた。

 最奥の女神像と祭壇の前に方円の陣を形作るのは、白銀の鎧をまといし十数人の聖騎士パラディンたち。彼らには傷こそ見当たらなかったか、その顔つきは満身創痍まんしんそういというに相応しく、双眸そうぼうには死への覚悟がはっきりと見て取れた。剣と紋章入りの大盾を構え、大聖堂の入り口を睨み付けている。

 そんな彼らの中央には、金の刺繍ししゅうで彩られた純白の聖衣と司祭冠をまとった白髪の老人の姿があった。

 この人物こそが現法皇の地位に就くドラクロワ・キルシュティンである。

 その隣に控える勇壮な顔立ちの偉丈夫が、法皇を守護する近衛隊長のマテウス・ホプキンスであった。

 マテウスは右手の聖槍の石突きで床を鳴らすと、部下たちを見渡して叫ぶ。

「いいか!? 命を賭して法皇様をお守りしろ! 必ず救いは訪れる! 世界の理が我々を見捨てるはずはない! 信じよ!」

 その直後だった。

 大聖堂の天窓の色硝子が粉々に砕け散って降り注ぐ。

「おお……」と驚愕の表情を浮かべる法皇を、マテウスは己が身にまとまっていた竜革の外套を被せて咄嗟に庇う。他の聖騎士たちも盾を頭上に掲げて、その硝子の雨を凌いでいた。

 そんな最中、天窓から異形の影が大聖堂の中央に舞い降りる。

「おお、ようやく法皇猊下げいかにお目通り叶ったぜ!」

 そう言って、ゲラゲラと笑うのは一匹の上位魔族ネザーデーモンであった。四対の黒翼を広げ漆黒の鎧を身にまとっており、鋭い牙と潰れた鼻、縦に割れた獣の眼が二つ。額には赤き第三の眼を瞬かせている。

 魔王軍七魔将“呪眼”のナイトゴアであった。

「もう、外にいた連中は全員ぶっ殺しちまった! ぎひひひ……。次は貴様らだ。雑魚ども」

 そう言って舌舐りをするナイトゴアを睨みつけ、マテウスが己や仲間たちを奮い立たせるように声を張りあげる。

「……確かに貴様らに比べ、我々人間は脆弱だ。しかし、魔を退ける聖なる技と力を得るために日々研鑽を積んだ我々に正面から挑むなど笑止千万」

「バカか……」

 ナイトゴアは嘲笑いながら両腕を広げた。

「……全員殺したっつっただろーが。貴様ら教会総本山の聖騎士バラディン総出で俺に傷一つ付けられてねぇ」

 しかし、マテウスも怯まない。

「法皇直属の精鋭部隊である近衛隊を他の聖騎士パラディンと一緒だと思うなよ? いくぞ! 総員、詠唱開始!」

 号令と共に方円の陣を組んだ騎士たちが聖術の詠唱を始める。

 ある者たちは、あらゆる邪悪を退ける光の障壁を張るために。

 ある者たちは、自分たちの武器に聖なる加護を与えるために。

 ある者たちは、目の前の邪悪な存在を撃ち抜く聖なる矢を放つために。

 しかし……。

「どうして……」

 マテウスは大きく目を見開く。詠唱を終えたはずなのに聖術が発動しない。その表情を目にしたナイトゴアは、心底楽しそうに腹を抱えながら笑った。

「……これこそが俺様の呪眼の力よ。呪眼は聖なる力を封印できる。もうこのウンビリクス・ムンディ全土で聖術を使う事はできねえぜ?」

「何という……」

 法皇が、それだけ言うと口を大きく開けたまま固まる。ナイトゴアが再び舌舐りをした。

「……と、言う訳で、そろそろ茶番は終わりにするぜ。法皇猊下がくたばったと知った、世界中の人間どもがどんなツラをするのか今から楽しみだぜえ」

 そう言って、大きく息を吸い込み胸を膨らませた。そして、その口腔こうこうを目一杯に開き、紅蓮の炎を吐き出した。それは全てを消し炭に変える地獄の業火であった。

 赤き本流は一瞬にして法皇とマテウスたちを飲み込み、祭壇を跡形もなく燃やし就くし、同時に純白の女神像を真っ黒に染めあげる。

 炎が凄まじい勢いで女神像の背後の壁を駆け登り、あっという間に天井へと達した。

「ぎゃっはははは! やってやったぜ! 俺様が法皇をぶっ殺した! ひゃっははははは……」

 ナイトゴアの哄笑こうしょうが響き渡る。彼は勝利を確信していた。しかし……。

「ば、バカな……」

 炎と煙がどういう訳か消えてゆく。そして、まったく無傷の近衛隊と法皇が姿を現した。その彼らの周りには金色に輝く壁ができている。それは、紛れもなく聖なる力を秘めた光の障壁であった。

「……あり得ない」

 ナイトゴアの呪眼の力は絶対で、すべての聖なる力を無効化する。そうでなくては、いかに魔王軍七魔将の一柱といえ、単騎で法皇庁に攻め入る事などできはしないであろう。

「なぜ……なぜだ……」

 そこで法皇が膝を突き、涙を流しながら言った。

「おお、聖女よ……」

 そのとき、ナイトゴアは法皇たちの視線が、自分の真後ろにある事を悟った。ナイトゴアは振り返る。

 すると、大聖堂の入り口の向こうに、両腕をいっぱいに突き出した少女の勇ましい立ち姿があった。司祭冠から流れる黒髪と教会の信徒である事を示す聖衣。

 聖女サマラであった。

 彼女の力は聖なる属性を帯びながらも、容易く呪眼の力を突き破って顕現し、法皇たちを地獄の業火から守り切ったのだ。

「法皇様、遅くなって申し訳ありません!」

「……小便臭い小娘の分際で」

 その言葉と共に両手の指先から鋭く長い鉤爪が伸びる。そして、ナイトゴアは駆け出そうとした。同時にサマラが入り口の右側に身を隠す。その背後では、既にミルフィナ・ホークウインドが弓を構えていた。間髪入れずに矢は放たれ、ナイトゴアの第三の瞳を貫く。更に二射、三射、四射と立て続けに飛来した矢は、ナイトゴアの肩や胸、太股を貫いていった。

「糞!」

 流石にナイトゴアは顔をしかめて立ち止まる。そして額に刺さった矢を抜きさった。すると、入り口の左側から現れたティナ・オルステリアがスタッフを突き出す。そこから凄まじい勢いで吹き出した煙幕がナイトゴアを包み込む。

「猪口才な……」

 咄嗟に四対の翼を羽ばたかせ、煙幕を吹き飛ばした。しかし、既に目前まで迫っていたガブリエラ・ナイツが左手の大斧を高々と振り上げていた。咄嗟に右側に跳び退くナイトゴア。大斧の刃によって砕かれ舞い上がる石畳の欠片。それを弾き飛ばしながら振るわれた右手の大剣が脇腹を掠める。飛び散る魔族の鮮血。

「ぐっ……これは少々不味いか」

 切り札の第三の眼を失った今、勇者パーティのみならず、近衛隊まで相手にするのは流石に分が悪い。ナイトゴアは天窓から逃げ出すために飛び上がろうとした。すると、その瞬間だった。

「どこへお出掛けだ?」

 天窓から降ってきたその男が、逆手に持った妖精銀の剣で、ナイトゴアの延髄から喉元を刺し貫いた。

「ごふ……馬鹿な……」

 ナイトゴアは膝を突き血を吐く。剣が引き抜かれ、背中を蹴飛ばされて俯せに倒される。すぐに立ちあがろうとするが、後頭部を踏み付けられた。その男の声が頭上から鳴り響く。

「さっきは、ずいぶんとイキってたみてーだが、ちょっと不利になると逃げんのか? あ?」

「糞……糞……貴様は勇者ナッシュ・ロウ」

「そうだよ。俺は勇者だ。お前みてーな糞雑魚とは違う。例えどんなに相手が強くても、目の前の弱者が苦しんでいる限り、俺は絶対に逃げない。まあ、そもそも、俺より強えーヤツなんか、この世に存在しねえんだけどなぁ!」

 ナッシュはナイトゴアの頭を踏みつけたまま、その首筋に当てた剣を振りあげる。

「やめ……やめてくれ……」

「死ね」

 その冷酷な言葉と共に刃は振り下ろされ、ナイトゴアの断末魔が轟いた。




「聖女と勇者、そして仲間の者たちも。直接、顔を合わせるのは、これが初めてであったな……」

 法皇が直々に勇者たちを労う。

 その光景を荒れ果てた大聖堂の入り口前で遠くから見守るマテウスの内心は悔しさで溢れ返りそうだった。

 彼は現法皇であるドラクロワ・キルシュティンを敬愛しており、彼を守護するという任務のために、聖術や武術の研鑽を積んできた。その道のりは並大抵の者では辿れぬほど厳しいものであったという自負があった。それがマテウスの強固な自尊心を作りあげていたのだが、ついさっき粉々に打ち砕かれた。

 自分は何もする事ができなかった。

 娘くらい歳の離れた十代の少女たちと勇者がいなければ、法皇の命を守る事はできなかった。

 マテウスは己の内に込み上げる黒々とした劣等感から目を背けるように、勇者たちと談笑する法皇に背を向けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る