魔導の探求者

野良犬の王

第1話 運命の炎


静かな朝だった。


ニルは鍬を手に取り、畑に向かう途中で空を見上げた。東の空が薄っすらと赤みを帯びている。

朝焼けとしては妙に色濃く、不吉な予感が背筋を走った。


「まさかな......」


彼は強くそう否定したかった。三日前から噂は村中に広がっていた。ガノン帝国の大軍がロータス王国国境を越え、着々と首都へと進軍しているという。

だが、この辺境の小さな村アスターフィールドまで敵が来るとは今は誰も思っていなかった。


畑に着くと、ニルは例のごとく土を耕し始めた。17年の人生の大半をこの作業に費やしてきた。6歳の時に疫病で両親を失ってからは、村の長老夫婦に引き取られていたが、13で自立。

以来、この小さな畑が彼の全てだった。


「おい、ニル!」


振り返ると、幼馴染のトマスが息を切らして走ってきた。


「村の入り口に兵士たちが来てる。徴兵だ!」


その言葉に、ニルの手から鍬が落ちた。


---


村の広場には既に多くの若者が集められていた。王国軍の兵士たちは疲れた表情で、急ごしらえの名簿を手に次々と名前を呼んでいる。


「名前は?」灰色の髪をした中年の将校がニルに尋ねた。


「ニルです」


「苗字は?」


「...ありません」


将校は一瞬眉をひそめたが、特に何も言わず名簿に記入した。


「明日の夜明けまでに準備をして、ここに集合しろ。装備は支給する。食料は三日分、自分で用意しろ」


ニルが何か言おうとしたとき、村の上空を切り裂くように鐘の音が響き渡った。


「敵襲だ!」誰かが叫んだ。


混乱が広がる中、ニルは村の外れに煙が上がるのを見た。考える間もなく、彼は自分の畑がある方向へ走り出していた。


---


畑に着くと、そこには既にガノン帝国の斥候兵が数名いた。彼らは黒と赤の軽装甲を身につけ、小規模な偵察部隊のようだった。


ニルは村の塀に身を隠し、事態を把握しようとした。斥候兵の一人が何かを呟き腕を掲げると、掌から小さな炎が生まれた。基礎魔法の一種だ。彼らは次々とニルの畑に火を放っていく。


「やめろ!」


理性を失ったニルは叫びながら飛び出した。斥候兵たちは驚いて彼の方を向いた。


「村民か。生かしておけ」一人が言った。


別の兵士が手にした短剣でニルに襲いかかる。間一髪、ニルは狩りで鍛えた反射神経で身をかわした。近くに落ちていた鍬を手に取り、咄嗟に防御の姿勢を取る。


「おい、こいつ抵抗してる。基礎魔法で仕留めろ」


兵士の一人が手を前に突き出し、魔力を集中させ始めた。ロータス王国では平民が学べる魔法は基礎中の基礎のみ。それも自己防衛や作物の生育促進程度の小さな魔法だけだった。一方、軍隊に所属する者たちは、より実戦的な魔法を習得している。


ニルは死を覚悟した。


兵士から放たれた火球が迫る。ニルは本能的に右に避けた


「ふんっ!」


火球はニルの後ろに着弾した。誰もが目を見開いていた


一瞬の静寂。


ニル自身が最も驚いていた。魔法というものは放たれる段階で避けるのは無理であるからだ。


「こいつ...魔法感知......か?」兵士の一人やつぶやいた。


考える間もなく、ニルは突進した。目の前にいた平氏に体当たりし、鍬で足を刺す。

が避けられてしまう。


「くっ、厄介な!全員で一気に!」


残りの兵士たちが一斉に魔法を放とうとしたその時、村の方角から援軍が駆けつけた。徴兵に来ていた王国軍だ。


「散れ!」ガノン帝国の斥候長らしき者が命じ、彼らは素早く森の中へと逃げ込んでいった。


---


「何があった?」到着した王国軍の将校がニルに尋ねた。


「奴ら...私の畑を...」ニルは燃え盛る作物を見つめながら答えた。彼の全てが、目の前で灰になっていく。


「他にも村の東側が襲われている。帰るぞ」将校が言った。「お前も来い。今夜にも全員村を離れる。ガノン軍の本隊が近い」


ニルは黙って頷いた。彼の中で何かが変わった。先ほどの不思議な感覚。自分でも理解できないその力は、彼の中に眠っていたものなのか、それとも極限状態で偶然発現しただけのものなのか。


村への帰り道、空は不気味な赤に染まっていた。それはもはや朝焼けではなく、遠くの集落が燃えている炎の反射だった。


---


その夜、村人たちは最低限の荷物をまとめ、集団で移動する準備を進めた。ニルが育ての親である長老夫婦の家を訪れると、老夫婦は既に旅支度を終えていた。


「ニル、無事で良かった」老婆のマーサが彼を抱きしめた。


「私の畑は...」


「気にするな」老人のハーバートが言った。「命があれば、また耕せる土地は見つかる」


ニルはよく分からないこの感覚、力?について話そうとしたが、言葉に詰まった。自分でも信じられない出来事だったし、誰かに話せば厄介なことになるかもしれない。貴族や特別な血筋でもない平民が、未来を見るかのように...


「何か言いたいことがあるのか?」ハーバートが尋ねた。


「...いえ、何でもありません」


老夫婦は知らなかったが、ニルの両親の出自については多くの謎があった。村に現れた時から二人は物静かで、過去について語ることはなかった。ニルが6歳の時、両親は謎の熱病で相次いで亡くなった。臨終の際、母は息子の手を握り、「いつか真実を知る時が来る」と呟いただけだった。


---


夜も更けた頃、村の外れから悲鳴が聞こえ始めた。


「敵だ!先遣隊が村に!」


王国軍の兵士たちが武器を手に走り出す。しかし、彼らの数はわずか二十名ほど。対するガノン帝国の部隊は、松明の灯りから推測するに、少なくとも百は超えていた。


「全員、今すぐ逃げるんだ!」将校が村人たちに叫んだ。「我々が時間を稼ぐ!」


混乱の中、ニルは長老夫婦を探した。人々が我先にと逃げる中、二人の姿が見えない。


「マーサ!ハーバート!」


応答はなかった。恐る恐る彼らの家の方向に戻ると、既に炎に包まれていた。


「いやだ...」


絶望的な気持ちで立ち尽くすニルの前に、黒い装甲を着た敵兵が立ちはだかった。


「おい、お前みたいな若い奴はガノン帝国の奴隷として役に立つぞ」


兵士が近づいてくる。ニルの頭に昼間の出来事がフラッシュバックした。


「くそっ...」


兵士の剣が振り下ろされる直前、横合いから飛んできた矢がその兵の喉を貫いた。


「こっちだ!」


王国軍の若い弓兵がニルに手招きしている。


「逃げるぞ!南の森を抜けて、スウィフトワルト方面へ逃げる村人たちがいる!」


二人は燃え盛る村を背に走り出した。振り返ると、アスターフィールドの村全体が炎に包まれ、夜空を赤く染めていた。ニルが生まれ育った土地、知る人々、全てが消えていく。


彼の人生が大きく変わる夜だった。まだ知らなかったが、この夜を境に彼は単なる農民ではなくなる。彼の内に眠る力、そして彼を待ち受ける運命

—それらは全て、この炎の夜から始まるのだった。

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