五、モグラビル 三階 伏見屋

 伏見屋の事務所は剣呑とした雰囲気に包まれていた。それもこれも、伏見が目の前のソファーに座る男を絶えず睨みつけているせいだ。伏見の激しい貧乏揺すりのせいで、隣に座る諒太郎に振動が伝わってくる。対して、男は伏見の睨みをものともせず、皐月が淹れたお茶を呑気に飲んでいた。


「いやあ、相変わらず皐月さんのお茶はとても美味しいです。これを飲むために来ていると言っても過言ではありませんね」

「ありがとうございます」

「ときに皐月さん、この後お時間はありますか? 最近素敵なカフェを『ないよ』」


 伏見は横から男の言葉を遮った。苛立ちを隠そうともしない硬い声だ。


 そこでようやく、男は皐月から伏見に視線を移した。目力が強く、諒太郎は男の視線に圧倒される。


 ツーブロックに刈り上げた黒髪はつんと立ち、広い額が顕になっている。形の整えられた眉毛の下で、切れ長の瞳が鋭い眼光を放っていた。高い鼻、薄い唇、シャープな輪郭。顔を形作る全てがいかにも堅物そうな性格を感じさせる。そんな男は事務所の扉を開けた瞬間から、皐月を口説いていた。


「お前に聞いていない」男は見た目に違わず、低い声で言った。「俺は皐月さんにお伺いしているんだ。黙っていろ」

「皐月さんは俺の事務所で働いている『俺の』従業員だ。仕事中の彼女の動向を俺が把握しているのは当たり前だろ。お前こそ黙れ」

「豆柴のくせに」

「猪がうるさいなぁ」

「社会不適合者」

「秩序の犬」

「チビ」

「デカブツ」

「『あぁん?』」

「あ、あの……止めてください」


 放っておくといつまでも続きそうだったので、諒太郎は意を決して割り込んだ。ぎろり、と赤と黒の瞳に睨まれる。ひっ、と諒太郎が竦むと、伏見は、はぁとため息をついた。


「——で、何しに来たのさ、安藤。仕事中に社会不適合者のところに来るなんて、警察はよっぽど暇なんだねぇ」


 男は安藤雄也。宮城県警捜査第一課の巡査部長らしい。よほど真面目な性格のようで、事務所で諒太郎の姿を認めるとわざわざ手帳を取り出して挨拶をした。諒太郎が大学生で伏見屋のアルバイトだと説明するや否や、「こんなところにいてはいけない」と肩を掴んで諭していた。


「俺だって皐月さんにお会いする以外で誰がこんなところに……。モグラから頼まれてな」

「モグラに?」


 諒太郎は思わず伏見の私室に目を向けたが、安藤に見つめられて慌てて視線を下げた。

 先ほど「説明はまず、彼からしてもらおう」と言ってモグラは部屋に引っ込んでいた。はてなマークを浮かべる伏見と諒太郎をよそに、チャイムが鳴り、現れたのが安藤だった。


「何度も言うが、これは事件解決のためだ。そうじゃなかったら誰がお前みたいな胡散臭い男に……」

「はいはい、わかったわかった。お決まりの定型文はいいからさ、早く話してよ。こっちだってこれ以上お前にいてほしくない」


 はぁー、とわざとらしく大きなため息をついた安藤は、仙台で静かに進行しているある事件について語り始めた。


 事件は、よくある変質者による犯行だと思われていたらしい。被害者は皆一様に女性で、夜道で突然襲われていた。しかし、チェスター事件のような凄惨さはなく、被害者たちは、襲われた際に抵抗したり転んだりしたことによる小さな怪我だけを負っていた。


「だが、事件において怪我の大小は関係ない。彼女たちは心にも傷を負ったんだ。そんな卑劣な輩を許しておけるわけがない」


 しかし、そんな安藤刑事の怒りも虚しく、犯人は見つからなかった。何より、被害者たちは当時の状況をほとんど覚えていなかった。


『急に後ろに誰かが立ったと思ったら、眠くなって……。甘い、花の匂いがしたような気がします。でも、気のせいかもしれないです』


 ほとんどの女性がこう語ったという。事件が地域課に引き渡され、警察官の巡回を増やすという予防措置に切り替えられようとしていたとき、異変が起きた。


 被害者の一人が昏睡状態に陥ったのだ。何の前触れもなかった。すると、まるでドミノ倒しのように、彼女たちは次々と眠りに落ちて行った。


「被害女性に共通点はない。全員バラバラだ。だが、被害を受けた後は一致している。全員肌が白くなり、徐々に眠る頻度が増え、そして昏睡状態になった」

「何か薬でも入れられた?」

「もちろん彼女たちの検査は行われた。すると被害者のうち三人からは太い注射針のような痕が見つかった。しかし、身体への異常は何一つ見つかっていない。ちなみに彼女たちは、元から睡眠障害を負っていたということもない。至って健康そのものだったようだ」そう言うと、安藤刑事はスーツの内ポケットから写真を何枚か取り出し、テーブルに乗せた。「これが彼女たちの写真だ」


 伏見と諒太郎はテーブルに身を乗り出した。年齢も見た目もバラバラの女性がそれぞれ写っている。三枚は体の部位がアップになったものだった。確かに太い針を刺されたような痕があった。


「で? その悪趣味な事件をどうしてうちに?」


 伏見が尋ねると、安藤はちっと舌を打った。


「違法薬物、人身売買などの利益を得ている組織がないか調査してほしい。本来なら我々の仕事だが、お前のような業界にいる人間ならより深くまで探れるだろう」

「ふーん……。モグラに情報を買わなかったの?」

「もちろんモグラに依頼した。だが、『少し気になることがある。彼らにも手伝ってもらおう』と言われたのでこうしてやって来た次第だ。……依頼料は出す。引き受けてくれないだろうか。頼む」


 そう言って安藤は頭を深く下げた。綺麗な右曲がりのつむじがよく見えた。


 そんな安藤を見て、伏見はため息をついて頭を掻いた。不服そうな、呆れたような、名状し難い顔をしている。そのうち、「わかった。調べておくよ」と言った。

「依頼料はきっちりいただく。覚悟しておけよ」

「予算が通りにくいと知っているだろうが……」


 悪どく笑って軽口を叩く伏見と呆れたように笑う安藤を見て、彼らは案外いいコンビなのかもしれないと諒太郎は思った。


 漫画みたいだ。警察官と悪徳企業が手を組んで悪を倒す、みたいな。あれ? 悪徳企業って大体倒される側じゃないか……? でも伏見屋の立ち位置って多分そんな感じだよな。


「諒太郎くん、何かすごい失礼なこと考えてない?」


 覗き込んできた伏見に、諒太郎は慌てて首を振った。


「では、俺は失礼する」

「はいはい、じゃあねー。……何かわかったらすぐに連絡するよ」


 付け加えられた伏見の言葉に、安藤は驚いたような顔をした後、少し口元を緩ませて敬礼を返した。伏見はそっぽを向いたままだったが、そんな安藤に向かって手を軽く上げた。


 出口に向かって行く安藤の背を見ながら、諒太郎はかっこいい、と素直に尊敬の念を抱いていた。


 二人ともかっこいいな。何か、何も言わなくてもわかり合っている感じがする。これが大人の男の友情ってやつなのかもしれない。いいな。潤に言ってみよう。


 しかし次の瞬間、事務所の出口から聞こえてきた安藤の声と、続く伏見の返答に、諒太郎は肩を落とす。


「皐月さん、今からでもカフェに行きませんか?」

「皐月さーん! その猪に塩撒いといて、塩‼︎」

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