三、青葉大学病院 本館最上階 特別室A
「潤、お前いい人はいないのか」
「は?」
「いや……。何でもない……」
病室で唐突に父から発せられた言葉に、潤はため息をついた。答える代わりに蛇口から勢いよく水を流し、何となく漂う気まずさをかき消す。
父——亮一はといえば、自分の失態を誤魔化すようにテーブルに積んであった書籍を意味もなく崩し、また積み上げていた。自分のものなのだから、何が置いてあるかなんてわかりきっているだろうに。
亮一の背後にある窓には、秋晴れの空が広がっていた。雲一つない。太陽は出ているが、冷たい風が強く吹きつけてくるので体感気温はかなり低かった。
母さんの好きな季節が来たな。
潤はぼんやりと思うと、持参した花を挿した花瓶を持って、母が眠るベッドに近寄った。
「どうしたのさ、急に」
「いや、すまない。何だ、その……。普段お前が何をしているのか聞こうと思ってな」
背後から聞こえる亮一の言葉に、潤は自分の口元が緩むのを感じていた。
不器用だな、と思う。だが、歩み寄ろうとしてくる少しズレた父の思いやりが嬉しかった。
いつものように花を母に向け、花瓶をサイドチェストに置く。今日も母は眠っていた。顔がさらに白くなったように思う。外に出ていないから仕方がないが、そうではなく、生気そのものがだんだんと無くなっているような気がしていた。
浮かんだ最悪の考えをかき消すために、潤は亮一に向き直った。
「俺はモテモテだからさ。誰か一人に決めるのが難しいんだ」
「そうか。……母さんに似たんだろうな」
「だろうね。父さん、モテなかったでしょ」
「ははっ。よくわかったな」
頭を掻く亮一を見て、潤は胸が温まるのを感じていた。こんな風に父と軽口が叩けるようになるなんて、少し前までは考えられなかったことだ。
先日の事件以降、亮一はアメリカの製薬会社に転職した。不死の研究や非合法な人体実験とは無縁の、今度は人の命を救うための研究をしている。
大神という後ろ盾を失ったとき、真っ先に心配したのは母の待遇だった。しかし心配していたようなことは何一つなく、潤の知らないところで亮一と製薬会社、それからモグラが話をうまくまとめたようだった。
——結局、モグラって何者なんだ。
事件の夜、一度だけ会ったモグラは、どこからどう見ても小さな少女だった。黒く長いマントで頭から足先まで覆い、隙間からわずかに見える髪や肌は白い。そして発する声には不思議と力があった。説得力、というのかもしれない。まるで世界の全てを知っているかのような彼女は、潤や諒太郎、さらには亮一よりも遥かに年上のような落ち着きがあった。
見た目は小学校の低学年くらいか……。でも、伏見さんを『伏見』って呼んでたな。それに伏見屋のオーナーか。何歳なんだ? そもそも日本人じゃないよな。
一度考え始めたらキリがない。潤は窓の外をぼんやりと眺めていた亮一に問いかけた。
「父さん、モグラって人に会ったよね?」
「うん? モグラさんか? あぁ、転職する少し前に会ったよ」
「どう思った?」
唐突な潤の問いに亮一は目を瞬いていたが、うーん、と眉根を寄せて考えだした。
「難しいな。掴みどころがなかったんだ。どう見ても私より幼いのに、私よりも遥に大人だった。上司と話す気分……いや、違うな。親戚の親父と話す気分、か?」
亮一の答えに、潤はぷっと吹き出した。可憐な少女に『親父』はないだろう。
だが、的を射ているような気もする。モグラと話していると、まるで見守られているような気持ちになるのだ。潤たちが行う全てを受け入れ、それが失敗に繋がるとわかっていても助言はしない。気づいたときには優しく肩を叩いてくれるような、そんな存在なのだ。
「結局何をやっている人なんだろ。わかんないや」
「情報屋だろう? そう言っていたじゃないか」
「そうなんだけどさ。でもなんか、それだけじゃないって言うか……」
「あぁ、自称吸血鬼だと伏見さんが言っていたな」
「何だよ、それ」
「案外本当かもしれないぞ」
大真面目な様子の亮一に、潤はまた笑った。そういえば、モグラは地下に住み、昼間に姿を現すことはほとんどないと聞いた。潤のようにモグラの存在が気に掛かる者たちを煙に巻くための言い訳だろう。
すると、ノックの音が響き、病室のドアがガラガラと開いた。
「失礼します。秋穂さんの体を拭かせていただきますね」
見慣れた看護師が顔を出す。亮一は立ち上がり腕を捲っていた。いつものように手伝うのだろう。潤も顔や首、手や足裏など服に隠れていない場所は手伝うようにしていた。息子に裸を見られるのは、秋穂が嫌がるだろうと思ってのことだった。
手をよく洗い、準備した温かいタオルを手に取る。何度か空気を含ませ、温度を調整する。
潤はそっと秋穂の顔にタオルを乗せ、あまり力を入れないように皮膚の上を滑らせた。力を入れすぎても、入れなさすぎても汚れが残るので難しい。秋穂の体が冷えてしまうのであまり時間もかけられない。何度か実践しているので、潤は手際よく顔を拭き終えると、両耳に移った。
ふと、右耳の下にある痣が目についた。小指の爪ほどの大きさの、小さな痣だ。清拭を行うようになって気づいた。亮一も知らなかったらしい。
少し力を入れてみても、当然のことだが痣は消えない。それどころか数日前より広がっているような気さえしていた。
気のせいか……?
耳を拭き終えた潤は、後を亮一と看護師に任せるためベッドから離れた。
卵のような形をした秋穂の痣が、頭から離れなかった。
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