第9話
雨の日。みんなで炉辺に集まって手仕事をしていたら、風が吹いてきた。
私の周りだけに。
ああ、いよいよなんだ……。
みんな、何も気づかない。
もうちょっと待ってね。もうちょっとだけ、みんなと話をする間だけ。
私がいつかここを去らなきゃいけないことは、あの後、私がいないときに、シゼグがお母さんに話してくれた。私は辛くて、自分で話せなかったから。
お母さんは、ふたりだけの時に、こっそり、『話は聞いた、とても残念だ、でも、その日までは、〈マレビト〉ではなくこの家の娘として、ここを自分の家だと思って暮らしてほしい。家族全員がそう願っている』と言ってくれた。
それから、みんな、何も言わずに、それまでどおりに接してくれている。ときどき、ふっと寂しそうな顔をしたりはするけれど。
私は、何気ない風をよそおってジャガイモの皮を剥きながら、農具の手入れをしているシゼグに話しかけた。
「ねえ、シゼグ、私、前に、私は〈マレビト〉じゃないから幸運をもたらせないと思うって言ったけど、もしかすると、そうじゃなかったかもしれない。近々、あなたに幸運が来るような気がするの」
「えっ? どんな?」
「そう、たとえば、一年後くらいに、可愛いお嫁さんが来るとか」
「……なぁんだ。まさか」
「まさかじゃないわ。なんとなくわかったの。えっと、そのお嫁さんは、茶色の巻き毛で、ソバカスがあって、ちょっとぽっちゃりしてて、そんなに美人じゃないかもしれないけど、笑うととっても可愛くて、右のほっぺたにエクボができるのよ。名前は、たぶん、『マ』で始まるんじゃないかな……」
「……『マ』??』
きょとんとするシゼグ。
「……わかった、マーリだぁ!!」
大声で叫ぶ弟たち。顔に浮かぶ、ニヤニヤ笑い。ははあ、このふたり、マーリがシゼグを好きなのを知ってるのね? おませさん。
お母さんも、納得したような顔をしてる。マーリの想いに気づいてないのはシゼグだけ?
「マ、マーリ? なんでマーリなんだよ! 俺、最近は、マーリとなんかほとんど口きいたこともないぞ? そりゃ、子どものころはよく一緒に遊んだけどさ。テル、突然ワケのわかんないこと言いだすなよ……」
真っ赤になって狼狽するシゼグ。
マーリがシゼグのところにお嫁に来るのに何の障害もないことは、村の女の子情報網を駆使して、ここ数日でしっかりリサーチ済みだ。一人娘でもないし、家同士の仲が悪いわけでもないし、何の不都合もない。何より、マーリは、とてもいい娘だ。
「きっと、幸せになるわ……」
微笑む私の前髪を、風が揺らす。
「みんな、突然でごめんね。私、もう行かなくちゃ」
手にしていた鎌を取り落として、がたっと立ち上がるシゼグ。
「行くのか? 今か?」
「うん、そうみたい。今まで、ありがとう。私、幸せでした。なんのお返しもできないけど、みんなの幸せを祈ります」
お母さんとおばあちゃんが、静かに立ち上がって、両側から私に抱きついた。
「ああ、テル、とうとう行ってしまうのね。あなたがうちに来てくれて嬉しかったわ。幸せだったわ。あなたのこと、忘れないわ……」
お父さんも横に来た。弟たちも駆け寄ってきて、お母さんとおばあちゃん越しに私に抱きついてきた。
「姉ちゃん、行かないで!」
「あなたが、ただの、身寄りのない行き倒れの女の子だったら良かったのに……。もしそうだったら、ずっとここに……」
お母さんの声が、涙で途切れる。
おばあちゃんも、お父さんも、弟たちも泣いている。
この人たち、なんでこんなに泣いたりするの? へんだよ。おかしいよ。だって私、ここに、ほんの一月もいなかったんだよ? ただの居候だったんだよ? それなのに、みんなしてこんなにおいおい泣くなんて、どうかしてるよ……。
そう思いながらも、私も涙が止まらない。とめどなく零れ落ちる涙が頬を伝う。
抱きしめあってだんごになった私たちを、シゼグが全員まとめてぎゅっと抱きしめた。
「そうだよ、テル、あんたが〈マレビト〉なんかじゃなければ良かったのに……。俺、〈マレビト〉が持ってくる幸運なんて、何もいらないよ! ただ、あんたがいてくれれば、それでよかったんだ! 妹でも何でも、あんたがずっとうちにいてくれるだけでよかったのに……」
不細工な顔を涙と鼻水でよけいぐしゃぐしゃにして、人目もはばからず啜り泣くシゼグ。
ああ、シゼグ、好きよ。あなたに会えてよかった。マーリと幸せになってね。
私の周りで、風が騒ぐ。風が渦巻く。前髪を揺らし、ショールを舞い上げる。
今はもう、きっとみんなにも、この風が見えている。
みんな、風に吹かれる私を、涙に濡れた目で呆然と見ている。
抱きしめるみんなの腕の中から、私の身体が隔てられてゆく。
もしかすると、私は、半分透き通りかけているのかもしれない。
「テル、テル!?」
必死で私を抱きしめようとするお母さん。
ごめんね、今はもう、その優しい腕が感じられない。
でも、なんでだろう、ぬくもりだけは感じるよ……。
突然、シゼグが私たちから離れたかと思うと、テーブルの上においてあったカゴの中から、ジャガイモを一つ、ひっつかんだ。
「テル、こ、これを! このジャガイモを俺だと思って、持って行ってくれ! このジャガイモは俺の誇りだ! 俺が育てた、村で一番、いや、この世で一番美味しい、自慢のジャガイモだぁーッ!」
胸元に押し付けられたジャガイモを、気づくと受け取っていた。私の手は、もう、半分、ここにはなくなっているのに。
号泣しながら、また抱きついて来るシゼグ。
「俺のこと、兄ちゃんのこと、忘れないでくれよ! ジャガイモを見たら、俺のことを思い出してくれよ! テル、テルーーー!!」
ありがとう、シゼグ。ありがとう、みんな。
私は泣きながら微笑んで、手の中に包み込んだジャガイモを胸に抱きしめた。
私はこれを、新しい世界には持っていけない。
新しい世界には、私は、なにひとつ――身に付けている衣服さえ、持っては行かれないのだから。
そして、私は、ここでのことを、何もかも忘れてしまう。
この物語とはまた違う、新しい別の物語が始まるのだから。
私も、別の私になる。
抱きしめるみんなの腕の中から、私の存在が薄れてゆく。
みんなの姿が、遠い空から見るみたいに、遠く、小さくなって消えてゆく。
でも、私は、一つ一つの世界のことを何もかも忘れてしまうけれど、それでも、初めてここに来たときから、シゼグの顔が馬という動物やメイクイーンという品種のジャガイモに似ていることを知っていた。恋物語の相手役は、普通は馬面だったりジャガイモに似ていたりはしないものだということも知っていた。服を渡されれば着方がわかったし、料理の皿とスプーンを渡されれば、食事をすることができた。親切にされたらお礼を言うものだと知っていたし、愛されれば愛を返すすべを知っていた。
だから、きっと、たとえ忘れていても、いろんな記憶や経験は、本当に私の中から消えてしまうわけではないのだ。たくさんの世界の思い出は、ただ、私の中の奥深くに眠るだけ。思い出せなくても、いつもそこにある。
もうこの世界からほとんど姿を消した私――たぶんもう身体を持たない私が、私を抱きしめるみんなの優しい温もりだけを、まだ、感じている。
私を包むシゼグの温もりが、みんなの優しさが、手の中のジャガイモに結晶する。
ジャガイモの形をした温もりの記憶は、何もかも忘れても、きっと、いつまでも、私の中に残る。私の心の中で、私を温め続ける。
いつも心に、ジャガイモを――――
そうして私は、風になった。
*
私の名は、テル。私は風。
語るべき物語を、探し求めている――。
いつも心にジャガイモを 冬木洋子 @fuyukiyoko
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