第15話 天宮まゆさえいればいい。
お風呂場で倒れたまゆの体を拭き、下着やTシャツを着させて彼女をベッドに運び込むと、私はようやく一息ついた。
「ふぅ……」
倒れられた時は本当に肝を冷やしたものだけど、すうすうと可愛らしい寝息を立てていたことから、まゆはただ寝てしまっただけのようだとすぐに気づいた。
にしても、急に倒れるように眠っちゃうだなんて、まゆはどれだけ寝ていなかったのだろう。普段は超がつくほどのロングスリーパーのくせに、軽々しく徹夜なんてするからだと思う。
まゆは見た目通り身体が弱いんだし、あんまり無茶はしないでほしい。
……なんてそんなのは、私のエゴに過ぎないか。
「……」
まゆが眠り、暇になってしまった私。
このまま帰ることも考えたけれど、なんとなく今はもう少しだけ、まゆの隣にいたい気分だった。
まゆの寝顔を眺める。
処女雪のように真っ白く、すべすべの肌。ほんのり桜色に色づいている頬は、小顔なのにぷくっと丸みすら帯びている。
くるっと長いまつ毛に、すっと通った形の良い鼻。
「……」
まったく。まゆときたら、どこをとっても可憐で美人さんだ。
たとえるなら、そう。妖精とか、天使みたいな。まゆの容姿は、そういった儚く幻想的な存在を彷彿とさせる。
しかしてひとたび目を開けると、その瞳はジトっと不機嫌な猫のようにも感じられて。
まあとにかく、まゆは総じてかわいいのだ。
けれど当の彼女は、そんな自身の容姿に目もくれていない様子。
まるでたまたま可愛く産まれてしまっただけとでもいうように、まゆは自分の可愛さにとことん無頓着である。
私がいっつも露払いをしているということに、彼女は気づいてすらいないんだろうな。
とはいえ、まゆのそんなところも、浮世離れしていて素敵だな、と思ってしまう私といえば、恐らくきっと末期なのだろう。
まぁ、末期だろうなんだだろうが、どうだっていいけれど。
彼女由来の病気ならば、それもまた美しい。
「……」
おもむろに、私は彼女の頬へと手を伸ばす。
お風呂に入ったばかりだからか、まゆの頬はほんのりとあたたかくて、私の指は、彼女の熱で溶けてしまいそうだった。
さらさらの前髪を少し払う。まるっこくて可愛らしいおでこがあわらになり、私は思わず彼女のおでこに顔を近づけて、ちゅっ、と、キスをしてしまう。
「…………まゆ」
「……」
「……まゆ」
「……」
返事はない。当然だ、彼女は眠っているのだから。
「まゆ」
「……」
「まゆっ」
だったら、
「すき」
あふれて、
「まゆ、すき」
こぼれる。
「まゆのこと、愛してる。すき。……大好き」
胡桃みくるという境界線を越えて、初めて世界に落とした言葉。
しかしそれは、初めてとは思えないくらい、口に馴染みすぎていて。
「……」
まゆの薄い唇を指でなぞる。
「……」
そこでふと、踏みとどまった。
「……」
こういうところが、私のヘタレなところで、反面、私が私を嫌いになり切れない部分でもあった。
……まゆにしたいことなんて、星の数ほどある。されたいことだって、たくさんある。
けれど私の手は、とても星になんて届かない。せいぜい星空に手を伸ばすのが関の山。
だから私は、まゆの片鱗に触れるだけで精一杯で。それ以上、踏み込んではいけないのだ。これ以上は、私の損得勘定が覆ってしまう。
一時の劣情で、まゆを失うわけにはいかない。
そういうものを、人は本末転倒と、呼ぶのだと思うからだ。
私の物語に、劇的なことは何一つだって起こりえない。
それも当然である。なにせ主人公であるこの私自身が、それを望もうとはしないから。
なんにも起きなくていい。なんにも欲しくないし、なんにも望まない。
なんにもいらないから。だからせめて、私からまゆを奪わないでほしい。
たったそれだけの些細なことを、過去も未来も、胡桃みくるは、強く望む。
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